聖徳をまとう_二/故郷にて(3)
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◇
叡福寺は、推古天皇の時代、聖徳太子の母である間人大后の御廟に太子とその妻の大郎女が合葬された際、僧坊を置いたのが始まりとされる。
御廟は丘陵を利用した円墳で、石室には中央正面に間人大后の石棺、東側に太子、西側に大郎女の棺が並ぶ。その三骨一廟は、阿弥陀三尊の思想が込められたものだとも現代に伝えられている。
蜻蛉返り――というのだろう。昼に発ったはずの故郷に、夕刻、再び私は立っていた。叡福寺はバス停の至近だった。ただ、歩きたかった。場所はどこでも良かったが、横谷香苗から聞かされた聖人の逸話が頭をよぎった。それだけだった。
バス通りに面して駐車場があり、正面の大きな石段を登った先の南大門から境内に入った。ほとんどは幼少期だが、叡福寺には何度か詣ったことがある。境内の地理は頭にあった。
宝塔や金堂には目もくれずに、二天門をくぐりまっすぐ御廟を目指した。半端な時間のせいか、私のほかに参拝者は見られない。御廟の周囲には結界石と呼ばれる石製の板碑が無数に立ち巡る。あたりは静謐に包まれていた。
板碑に沿って墳丘を回り込む坂道を私は歩み進んだ。叡福寺の北側には御廟を抱くように聳える五字ヶ峰と呼ばれる小山があった。しばらくは左手に墓地を見ながらささくれた丸太階段を登る。既に陽は傾きつつあったが、衰えない熱気に額からは脂汗が吹き出してくる。やがて山頂に至った。草地が広がり、中央に経塚が鎮座していた。経塚のまわりは、梵字の掘られた結界石が円形に配置され、そそり立っている。
これが、見たかったのだ。どうせ歩くならば。横谷香苗から聖徳太子の歯にまつわる逸話を聞かされたとき、頭に浮かんだ幼少期の記憶の中の光景。御廟を抱く小山の頂。経塚を隙間なく囲む結界石の円陣が、そう、ヒトの歯列に見えて――。
額を拭い、暮色に染まり始めた夏空を見上げる。足元に眠る聖人を想った。
聖徳太子の遺骸から歯を盗んだって――
盗掘をおこなった僧は何のためにそんなことをしたのだろう。
例えば、再利用のためか。中近世のヨーロッパの話をどこかで聞きかじったことがある。当時は、歯を失った人のための陶器製の義歯を多くは用意が出来ず、時には遺体から歯を抜き取って義歯にすることもあったという。違う。盗賊が入ったのは鎌倉時代だと言っていた。時間が経ちすぎているし、わざわざそんなところから盗み出す理由が無い。
では、もっと単純に聖遺物として祀るためだろうか。これも今回のケースでは考えにくい。動機が信仰心であるなら、他の部位を選ぶのが自然だ。香苗が言っていたとおり、例えば頭蓋骨ごと持ち出すとか。スリランカにはブッダの歯を祀る寺院があるそうだ。ただ、あれはブッダの骨――仏舎利がインド各地に散らばるうちに、たまたま歯がスリランカにやってきたのだ。おかしな表現になるが、選択肢があるなかでことさら歯を選んだわけではない。
いや、それ以前にそもそも現在は聖徳太子不在論が学説としても有力なのだ。飛鳥時代、厩戸皇子という王族が様々な功績を為したとする記録がある一方で、聖徳太子を象徴する十七条憲法、冠位十二階や遣隋使の派遣といった事跡は厩戸皇子のそれとは言い切れず、後世の偽作とする論が強い。つまり、厩戸皇子はいたかもしれないけれども、それが聖徳太子と同一人物であるかどうかはわからない。また、そもそも聖徳太子なる聖人がいたかどうかもはっきりしないということだ。
そう。ユミは確かに私の前に存在した。存在したが、ユミ――八城澄子と河下美月が同一人物であるかどうかはわからないように。
さながら歯列のような結界石を前に、覚えずほっとため息をついたとき、ショルダーバッグの中のスマホが震えた。横谷香苗からだった。
「僕だけど」
『なんだか元気足りないね。あのさ、今、うち両親が旅行中って言ったやん。肇――あ、弟ね、やつとだけじゃつまんないからさ。三人で一緒にごはん行かへん?』
「僕と? 何で?」
『何でって。せっかく偶然再会したんやからさ。何でもキッカケやん。行こうよ。今どこいる? 家?』
「えーと、実は、あの後また太子に戻って来て。今、叡福寺」
『へ?』
――続(二/故郷にて(4)へ)
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