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大人のピアノ再開〜私のピアノ歴・音楽経歴について

私のピアノ歴・音楽歴について書いてみた。

【幼少期】
5歳から母の実家近くのヤマハ音楽教室で個人レッスンを受け始める。

本当は個人レッスンは6歳からと言われていたが、体が大きかったのでいいでしょう、ということになった。なぜ母の実家近くだったかというと、早くに祖父を亡くした祖母を気遣って、週末母が実家に帰りたかったから。なので毎週土曜日は小学校(土曜授業のあった時代)から帰ると大急ぎで板橋から埼玉へ向かっていた。

【小学生時代】
ウチは母が自分がピアノをやりたかったのに出来なかった(時代や経済的なことや色々あったようだ…)という理由で、どうしても私にピアノをやらせたい、そして辞めさせたくないと必死だった。
私は全く乗り気じゃないのに、ヤマハのグレード試験も何回か受験させられた。そのための勉強が嫌いすぎてしょっちゅう怒られては泣いていた。
小学3年くらいの頃か、将来音大を目指したいと真剣にピアノをやってた同級生と彼女の友達と一緒にリトミック教室にも通い始めた。そこで初めてリトミックとソルフェージュを習った。
埼玉で習っていたヤマハの先生が出産を機に教室を辞めてしまうことになり、板橋のヤマハに移った。
5年生くらいになると中学受験を機にピアノを辞める子達も多かったが、ウチは母が「レッスンに行かなくても良いから…」と月謝を払い続けており、幼心に多少の負い目を感じ、練習はほとんどしないがレッスンにはとりあえず行っていた。なんとか完全に辞めてしまうことなく中学受験の壁を乗り越えた。

【中学生の頃】
ようやく練習曲の他に曲らしい曲をやらせてもらえるようになったのが中学に入ってからだったと思う。
ショパンの幻想即興曲が私にとって最初の「曲」だった。先生にはまだ早い、と言われていたが、弾かせてください!と(私より母が)ムリを言って弾かせてもらった。先生が想像してたより弾けたみたいでびっくりされた。そのことにも私より母の方が喜んでいたと思う。
中学2年の時、母の実家を建て替え埼玉に引っ越し、今度は埼玉から板橋にしばらくピアノを習いに行っていた。

【高校生の頃】
確か私が高校生になりたてくらいの時、先生が埼玉の自宅でピアノ教室を開くため、板橋のヤマハを辞めることになった。それを機に私もヤマハを辞め、偶然同じ県内だった先生個人のお教室に移ることにした。
それからはレッスン代は都度払いで、時間もこれまで30分だったのが1時間となった。曲もこれまでより好きな曲をやらせてもらえるようになった。ピアノが少し楽しくなったのはその辺からだ。

【大学受験期】
高3の大学受験中も月1程度にレッスンに通っていた。レッスンしに行ってるのか、お茶しに行ってるのか分からないくらいだったが、おかげで細々と続いていた。
気分転換にエレクトーンでポップスを弾かせてもらったりもした。ドラムパターンを流し、先生がベースを弾いてくれて私がピアノを弾くというセッションのようなこともやらせてくれた。
音大に行くことはハナから考えておらず、一般の私大を受けていたが、全落ちした。
浪人することになって、先生から「音大も受けてみたら?」などと突如無謀な提案をされたが、副科ですら通用するかわからないレベルのピアノ演奏スキルにその他楽典やコールユーブンゲン等々の勉強もあり、さらに普通の大学受験の勉強も継続…となったら、どう考えてもキャパオーバーだ。無理です…と断った。

【一浪を経てアメリカ留学】
1浪してまた受験に失敗した。
燃え尽きていた私を見兼ねた両親が、私が唯一得意としていた英語に目をつけ、アメリカ留学を勧めてきた。その年の「9月から正規留学」と書かれた新聞の広告欄で見つけた留学機関の説明会に行き、あれよあれよという間に、その留学機関が提携していた総合大学へ入学が決まった。母に「英語もままならないのだから、かろうじて続けて来たピアノを使いなさい」と言われ、音楽学部を擁するコロラド州の小さな町にある州立大学を選んだ。
町の人口が約3万人のうち、そこの大学生が約5千人、さらにその中の小さな音楽学部。私のいた頃は学部生約50名くらいだったろうか。演奏科と教育学科があり、アメリカ人の生徒たちの多くは職に就きやすい教育学科を専攻しており、演奏科としてのピアノの生徒は私一人だった。
ピアノの講師は私の入学と同じ年に赴任になった中国人女性。当時30代前半〜半ばくらいだったと思う。北京大学(経済学部だったような…)を卒業後、アメリカのクリーブランド音楽大学で修士を取り、その後イーストマン音楽学校で博士号取得課程の最中の赴任だった。(故に私が大学3年の時、1年間先生がイーストマンに戻ることになり、同学校の同じ門下生から代わりの先生が来た。)
アジア人同士ということもあり、良くも悪くも(笑)とてもよく面倒をみてもらった。
だが、これまでの習い事とはまるで違う初めての本格的レッスンに戸惑いっぱなしで、1年目はよくレッスン後泣いていた。多少要領を得た2年目くらいからは泣かされる事はなくなったが、それでもやっぱりレッスンは怖かった。
しかし、先生の演奏活動のお手伝いをさせていただくことも多く(主に譜めくり担当だが。笑)、先生の間近でこれまで聴いたこともないクラシックのレパートリーを知ることができ、地元近隣の活動ではあるが様々な現場も体験させてもらうことができた。

【大学在学中】
大学1年〜3年の夏休み、Chautauqua School of Musicのピアノプログラムに参加。(↓別途記事参照) 


2年生の時にベートーヴェン ピアノ協奏曲2番、4年生の時にグリーグ ピアノ協奏曲で、デンバーの音楽学校で開催されたコンチェルトコンペティションに出場。

大学3年次に演奏科必須のJunior Recital(30分のハーフリサイタル)、4年次はSenior Recital(1時間のフルリサイタル)を開催。

Senior Recital終了後、先生の勧めでクリーブランド音楽大学とイーストマン音楽大学大学院のコラボレーティブピアノ(コラボ・伴奏ピアノ)科を受験したが、準備・実力ともに足りず敗退。
だが、私自身は元々商業音楽に強い興味があったので、バークリー音楽大学を志願したところ、先生方の推薦状と自分のエッセイ(志望動機の作文)のみでヌルっと合格した。
2000年1月の学期から2年間、バークリー音楽大学へ。(経済的なこともあり親から2年間のタイムリミットを設けられた。)

都会にはすごい演奏者がたくさんいるのは頭ではわかっていたが、現実にその場に身を置くと何をして良いかわからなくなった。
基本がジャズの学校なので、必須のピアノレッスンはジャズスタンダードをやるのだが、そもそもコードがすぐ読めない状態だったため、ちんぷんかんぷんすぎてピアノを触るのが徐々に億劫になって行った。
パフォーマンス専攻はムリだと思ったので、2学期めからはミュージックビジネスを専攻した。だが、音楽関連以外のビジネス系のクラスをたくさん取らなくてはならず、2年では足りない…と気付き、ミュージックビジネスの触りも学べるソングライティング科に在籍することを決めた。
まだDTMという言葉が知られる前のことだが、シーケンサーで曲を作ったり、初めて作詞作曲、編曲(オーケストレーション)なども学んだ。タイムリミットがあったのでかなり授業を詰め込んでしまったが、楽しかった。それでも結局最後の卒業制作(ポートフォリオ)の単位を取るのが時間的に間に合わず、中退を選んだ。勉強すべきことはできたと納得していたので、悔いはない。
バークリーではバークリー・パフォーマンス・センターというホールでスタッフのバイトもしていた。生の音楽を聴くことが大好きな私にはこの上無く恵まれた仕事で、時間の許す限りシフトを入れていた。上原ひろみさん、スガダイローさんといった学生時代から突出していたピアニストをはじめ、プロ並みのすごい生徒さん達のライブや講師陣のコンサート、プロのショーなど、ジャズ、ポップス、ロック、ワールドミュージック他多岐ジャンルに渡るものすごいたくさんの生の音楽に触れることができた。これは授業だけでは得ることのできないとても貴重な体験だった。

【帰国後】
帰国後しばらくは仕事をしながら時々友人に誘われて弾き語りライブに出たりしていたが、クラシックピアノに至っては、バークリーに入学した時点で離れてしまっていた。
何度かピアノ再開を試みたこともあるが、クラシックピアノは仕事をしながらやるにはとても重たく感じてしまい続かなかった。にも関わらず、自分の学歴に対してあまりにもピアノが弾けないことへの自己卑下と焦りと罪悪感で悪あがきし続けており(←ムダなプライド)、某大手チェーン楽器店でジャズピアノのレッスンを受けてみたりもした。半年ずつ期間を開けて2人の先生から受けてみたのだが、弾くこと自体がなかなか「おもしろい」とまで感じられず、じきにレッスンに行くのが精神的負担になるようになってしまって辞めた。

【現在】
両親が他界し、数年前実家を処分したのだが、そのタイミングで幼い頃から一緒だったアップライトピアノも処分してしまった。
代わりに自宅の電子ピアノをヤマハのハイブリッドピアノに奮発して買い替えた。
ジャズピアノのレッスンを辞めてから、また全くピアノを触らない時期が1年弱続いたのだが、惚れて奮発して買ったハイブリッドピアノがオブジェと化してしまうのは不本意だった。
長いことピアノと睨めっこの日々が続いたが、やっとこさ重い重い腰を上げた。(きっかけは別途記事に記載↓)


まず今のところはレッスンには行かずに、弾きたいクラシックの曲を自由に弾いてみることから再開することにした。
何かの圧に恐れながらではなく、自分が楽しいと感じられることをまず一番に考えながら…これまでの人生で今が一番気持ち穏やかにピアノに向かうことができるようになってきている。
細々とではあるが今のところ続いている。

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