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何もない美術館は、私の目指す家だった

2020年、東京の夏、最高気温36℃
葉は揺れるのに体感できない風の中、アスファルトから立ち上る熱気にやられながら、私は世田谷美術館を目指していた

そこで展示されていた「作品のない展示室」は
私の理想の住宅を彷彿とさせた

そんな、鑑賞の感想


世田谷美術館|作品のない展示室
会期 2020.07.04~08.27

夕方に差し掛かった、午後4時の木漏れ日
その眩さに目を細めつつ、東京都立砧(きぬた)公園を歩むと、世田谷美術館に出会う
階段と植木、屋根の水平のラインが平たく広がる美術館だった

入り口で検温等を済ませ、受付へ向かう
なんと、「作品のない展示室」の閲覧料は無料だった

そんなことある?
良いのだろうかと気を揉みながら、ガラスの張られた通路を進む
何度も現れる逆三角形のモチーフが天井を支え、ガラスがその左右を分かつ
外と内の境目があいまいな印象を受けた

透明のガラス越しに感じる自然は、どうしてこうも憧れと情感を含むのか
そんなことを考えながら進むと、左手に促すような壁に「作品のない展示室」という言葉
壁に沿って目を滑らせると、その先に、モネの「睡蓮」大装飾画のように、
4枚の景色が飾られていた


「作品がないなんて、嘘じゃん」
これが私の純粋な感想である


真夏の刺すように強い太陽光が
高度が下がったことで拡散され、木と木の間、丘の上、葉の隙間に充満していた
充満した光は再び集まって輝き、私たちの眼に飛び込んでくる

本当に、絵画のようだった
世田谷美術館は、この景色という絵画を飾るためだけに建てられた建築物のように感じられた
円の1/4、中心から淵に向かって上へ上へと広がる展示室
手前にある抑えられた天井が視界から消えると、ただただその広がりを目で追うことしかできなかった


美術館の随所には、設計者である内井昭蔵さんの言葉が添えられていた

美術館は美術と生活との関連をとらえ、示す場でなければならないと思う。
私は生活空間化こそ、今日の公共建築に求められている点であると思う。
                    「建築画法」1989年3月号より

生活空間化!それだ!と手を打ちたかった(音がすごく響くので控えた)

この美術館はとても美しい、でも、それ以上に居心地の良さが際立っていた
もし私がここに住んでいたら
窓台に腰掛けたいし
広い展示室にクッションを持ち寄って寝そべりたい
光が柔らかく反射する壁のそばで読書をしても気持ちいいだろうし
窓の外を移ろう光をベンチに座ってずっと眺めていたいと思うだろう
きっとどこに居ても”心地”が良い

その「どこに居ても心地が良い」というのは住宅に通じるところだと思う
特別な空間じゃない、だけど格別に心地のいい場所
それが、住宅であり、世田谷美術館もまた、住宅のようであった



展示室たちを通り過ぎると、薄い明かりに満ちた、
修道院のような通路が現れる
ハイサイドライトから取り込まれた光が、コンクリートの壁を伝い、柔らかな紗のカーテンのように広がっていた

高ぶった気持ちを落ち着かせる廊下
私には、この暗さもまた、とても心地よかった
外の景色も、まばゆい光も見えないけれど、薄く冷たい光のなかで、
美術館特有の、ひんやりとした静謐な空気に溶け込むように
ぼんやりとした時を過ごすことも、贅沢な体験だった

私は、住宅の中にも
この廊下のような「暗さ」が必要だと考えている
一様に明るい空間は落ち着かないし、品がない、そして、居場所もない
ぽつぽつと灯りがあれば、その明かりを頼りに人は集えるし
距離をとることもできる


「住宅の中に満ちる光」が
グラデーションのように広がり、様々な濃度で存在することは
そこに住まう人に、様々な居場所があるということを
暗に示してくれるのではないだろうか

私は淡い希望を抱いている



以下、世田谷美術館にて撮影した写真

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ガラスの通路を抜け展示室へ
上へと向かう梁の陰翳が美しい
窓からの光は床で反射され壁を昇る


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もうひとつの展示室
強い光をつやつやとした木の床がそのまま反射する
光の色が如実に表れていて美しい
壁で踊る光、光源そのものののようなまぶしさ

モノクロの通路、壁際のベンチでひと時を過ごす


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夕暮れ時、振り返ると
作品のない展示室は黄金の光に満ちていた


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