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ある新聞記者の歩み10 「現役記者には申し訳ない」楽しかった記者生活、“酒とバラの日々”

元毎日新聞記者佐々木宏人さんが石油危機という、記者としてめったに出会うことのできない取材機会に恵まれた話はすでに紹介しました。今回は当時の取材にまつわるこぼれ話を聞いてみました。
現在は、ネットの発達とスマホの普及のもと、新聞というメディアの退潮が目立ちます。しかし、当時は、新聞がマスメディアの王者としてニュースの供給を圧倒的に担っていました。テレビも映像の力を発揮して成長しつつありましたが、信頼度という点では新聞が常にまさっていて、ジャーナリズムの中心的担い手でした。
新聞記者の“酒とバラの日々”とでもいうのでしょうか、佐々木さんはその時代を思う存分駆け抜けたようです。(聞き手-校條諭・メディア研究者)
(上の写真は当時のベイルートの風景、遠くに見えるのは地中海)

経済部時代(6)

◆現役記者との会話から

そうなんですよね。この連載記事を読んでいる今も付き合いのある現役記者から、「佐々木さんの時代はいい時代だったんですね!」と皮肉交じりに言われることが最近あります。自慢気に、いい気になってしゃべっていて、なんかドラ息子が家の遺産を食いつぶして、それを継いで大変な苦労をしている子どもや孫たちに、申し訳ない気分ですね。ほんとにいい時代を過ごしたんだと改めて思います。恐らく取材先でも我々の時代のように、大切に扱われることはないんじゃないですかね。

部数は我々の時代はドンドン伸びいていく時代でした。新聞協会などのデータを見ると全国の新聞発行部数は、僕の入社した5年後の1970(昭和45)年は3630万部、ピークは2000年(平成12)年の5370万部。それが現在は3509万部(2020年12月・新聞協会調査)ですから50年前に戻ってしまい、その下降傾向は止まらない。ABC調査で毎日新聞は206万部といわれ、日本経済新聞、中日新聞にも追い抜かれるような状況ですよね。この辺は校條さん(インタビューアー)の専門ですよね。

Q.全体としてはおっしゃるとおりです。実は、日本新聞協会の統計では、実は一般紙(経済紙)とスポーツ紙の内訳を見ることができます。1995年の“インターネット元年”以後、まずスポーツ紙が先行して急速に減少を始めました。一般紙が目に見えて減少しはじめたのは2006年頃からで、特に、2008年にiPhoneが登場して以降です。
 現役の記者の方のお話を聞くことがありますか?

そうなんですね。現役記者と話をしていて、締め切りのない“ネット時間”に追いまくられて気の休まる時間はあまりない。新聞の発行部数はドンドン落ちていく一方。新聞社の将来展望が見えない。仲間の記者はどんどんネットの世界などに転職していく。僕たちのようにのどかに、クラブで他社の記者と一緒に飲みに行ったり、マージャンにうつつを抜かすなんてあまりないようですね。

Q.佐々木さん、この前電話でお話した時、今年(2021年)4月9日付けの日経の8ページの「2022年卒大学生対象就職企業人気ランキング」広告特集、これを見てショックを受けたと言っておられましたけど、どうしてですか?

◆隔世の感!日経の「就職企業人気ランキング」の特集記事

何とも感慨がありましたね。今年の「文化系学生の入りたい企業ベスト50」には、トップは東京海上日動火災。次いで第一生命、味の素、伊藤忠などが並び新聞社が一社も入っていないんですよね。100社のランキングを見ても入っていません。昔は「朝・毎・読・日経・産経」全部入っていたと思います。
業種別ランキングベスト10「マスコミ(放送・新聞・出版・広告・芸能)」で見ても、トップはソニーミュージックグループ。講談社、ポニーキャニオンなどが並び、10位にやっとTBSがいて、新聞社は一社もありません。

「ネットの時代、当たり前だろう」(笑)といわれそうですが、数十年前からこのランキング調査、リクルートなどが始めたかと思います。気になって我々が入社した当時の調査結果をネットで検索して調べてみました。55年前1966(昭和41)年のランキングです。その時の文系男子の入社企業志望ベスト20位ランキングの5番目が朝日新聞、毎日新聞は18位なんですね。朝日はそれ以降、1981(昭和56)年までベスト20位内をキープしていました。

毎日新聞も実質的な倒産となる新旧分離が起きる1977(昭和52)年までベスト20位には時々入っていました。マー企業社会の実態を知らない学生の選択といえばそれまでなんですが、でもこの55年間のリストを見ていると、ある程度の日本経済の企業社会の変遷を映し出しているといえますね。

 注)新旧分離
 毎日新聞社の経営危機が表面化したのは1974(昭和49)年。その後、再建策として新旧分離方式という考え方により、1977(昭和52年)年12月に新会社を設立、旧会社に債務を残して、題号と新聞発行事業は新会社が担うこととなった。事実上の倒産であるが、当時は、毎日新聞の報道は活況を呈しており、財界も学術界も「毎日をつぶしてなるものか」という応援姿勢が強く、新生毎日新聞への期待は大きかった。(校條)

20200527佐々木氏と校條2

Q.毎日新聞社という企業体は苦難にぶつかったわけですが、メディアとしての新聞は全盛期だったわけで、その時代を経験された記者のオーラルヒストリーを記録しておくのは、時代の証言としておおいに価値があると思います。そこで少々趣向を変えて、取材にまつわるこぼれ話などいかがでしょうか?

◆サウジでうっかりタクシーに乗ると・・・

私もおだてに乗りやすいから(笑)、歴史の一コマとして話しておきましょう。
1974年1月7日に当時の中曽根康弘通産相がイラン、イラク、アブダビ(現アラブ首長国連邦)を訪問します。その時、同行取材をした話はすでに第6回で話しましたよね。その前年の73年10月6日に第四次中東戦争を契機として、10日後の16日にOPEC(石油輸出国機構)が消費国に供給制限をかけ、反イスラエル・パレスチナ支持を条件に、石油供給の段階的制限を打ち出します。

石油危機の勃発です。日本経済はパニックに状態となり、“アブラ乞い外交”と揶揄されながら、12月に三木前首相がサウジアラビアなどを訪問、中曽根通産相も、1月早々に旅立つわけです。日本国内では原油を燃やす火力発電が主流だった電力供給体制でしたから、大変です。電力供給制限が発令されるなどの緊迫した状況下、三ヶ国を訪問して、日本政府がパレスチナへの理解を示していることを表明、18日に帰国しました。

私は帰らずにテヘランからレバノンのベイルートに移り、「無資源国日本の危機」をテーマとする1面連載企画の取材のため、サウジアラビア、クエート、アブダビの現地取材に出かけました。ベイルートに拠点を置いて風呂敷一つに取材用具を入れて飛び回った記憶があります。そのときに第1回目か2回目の記事を書きました。1面の左上で連載したかなり大きい企画でした。とにかく“産業のコメ”といわれた石油が来なくなるというので、狂乱物価といわれ、物価がほぼ3倍になって日本経済を揺さぶっていました。

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でもサウジアラビアなどの産油国に行くと、国中のんびりした様子。石油危機とは程遠い状況。産油国と消費国というポジションを考えれば当たり前なんですが、そのギャップに驚きました。

思い出すエピソードがあります。首都リアドで東京で紹介状をもらっていた、三菱商事、伊藤忠、丸紅などの現地駐在員に会うと、「市内でタクシーに乗る時はよく気をつけろ」と言われましたよ。運転手が、日本人男性を見ると助手席に座れと言うんだそうです。

サウジでは結婚の際、男性が女性の家に大金を払うんだそうです。お金がないと女性と結婚することができないんです。タクシー運転手はそういう経済的余裕がないので、同性愛が多いんだというんですね。それで助手席に座るとさわられると言われました(笑)。「佐々木さんは色白だから気をつけた方がいいよ!」(笑)

そんなおかしな話が交わされるほどのどかでした。被害には会いませんでしたが(笑)。「下手に女性にちょっかいを出すと、宗教警察に逮捕される。気をつけてください。捕まると町の広場でイスラムの教えに従い鞭打ち刑か、石投の刑に遭いますヨ」と脅かされたことを憶えています。だけど女性はベールで目だけ出しているんですから、とても近寄れない雰囲気でした。

◆砂漠の国と新緑の日本

禁酒国ですから、市内のレストランに行くとノンアルコールの飲み物しかありませんでした。でも、丸紅の社員の社宅に行ったら、「佐々木さん飲みますか?」というので、もちろん喜んでいただくことにしました。奥からターバンを巻き、スラムの長い袖の足元まである白いワンピースを羽織った、真っ黒い顔のスーダン人の召使が、ウイスキーのジョニーウォーカーを持ってきてくれました。でも禁酒国でのウイスキーは、びくびくしながら飲んだことを憶えています。

当時、三菱商事がリアド郊外で確か石油化学工場の建築工事をやっていたので訪ねました。とにかく日本人男性だけで20人はいたでしょうか。酒は飲めず、女性の事務員がいるわけでもない索漠とした、周りは緑のない全くの“砂漠の飯場”だったことを憶えています。とてもここには長期滞在はできないなと思い、商社マンってえらいな!と思いましたね。

日本に帰ってからその話を確か第5回に書いた、右翼の資源派フィクサーといわれた田中清玄さんにしたことがあります。そうしたら、田中さんが以前サウジの王族を5月の新緑の時期に、箱根に招待したことがあるんだそうです。その時、その王族がホテルの部屋から見える新緑に見惚れて立ち尽くしていたとか。「砂漠の国からきて新緑の美しさに感動していたんだね。その心中を考えると声をかけられなかった」という話を聞いたことがあります。本当に日本は四季に恵まれた“美しい国”だと思いますね。

ただリアドからレバノンの首都・ベイルートに戻る夜の飛行機の中で、砂漠の上を飛んでいると下にところどころ、石油の掘削の現場が見えるんです。そこから余分なガスを燃やす炎が出ているんですね。ちょうど隣に座っていた白い衣服を身に着けたイスラムスタイルの若い学生が、その炎を指さし、「アレが君たちの世界の文明を支えているんだよ」と英語で行ったことは忘れられないですね。

◆中東のオアシス  レバノン

この当時、レバノン・ベイルートは中東のオアシスでした。旧フランス植民地でイスラム教のスンニ派、シーア派が共存し、キリスト教もカトリック、ギリシャ正教、アルメニア正教などが共存してモザイク国家といわれていました。バランスよく政治的にも安定したいたようです。町並みはヨーロッパ風、アラブ風の衣装を着ている人も少なく、切れ長の目をした先端のパリモードを着こなした美人が多く、“中東のパリ”また“中東のオアシス”とも言われていました。地中海に面して気候も良く、食い物もおいしくて、私は海外で「また行きたいところはどこか?」と」言われれば、間違いなく「あの当時のベイルート」といいますね。

しかし訪れた翌年の1975年には、この政治的バランスが崩れます。石油危機をきっかけとした中東紛争に巻き込まれ、内戦が始まり、見る影もなく市内は破壊されたようです。ようやく落ち着いてきたと思ったら昨年、ベイルート港で大爆発が起きて混乱が収まらないようです。日産のレバノン出身のゴーン元社長がここに逃げましたが、彼はここの生まれですから昔の思い出があるんでしょうかね。

当時、サウジアラビア、イラク、アラブ首長国連邦とか、厳しいイスラム教の戒律の国の金持ちは、休暇のときはレバノンに来て羽を伸ばして遊んでいたといわれていました。日本料理店も2軒くらいありました。今でも覚えていますが、地中海沿いの海岸沿いのPigeon Cliff(鳩のがけ)といったかな、そこに日本料理屋と地中海料理屋があって通いました。

地中海を見下ろす風光明媚でいいところでした。そこで確か「アックラ」っていう、ナツメヤシで作ったレバノン名物の酒があるのです。透明の瓶に入っているんですが、その酒をコップについで、上から水を入れると真っ白になるんです。そのレストランでこの酒を飲みました。野菜もマルタ島とか地中海から来るんです。これをかじりながらやるんですが、美味かったなー。

日本に帰るとき、この酒を経済部のみやげに持って帰ったんです。ところが部会で出して、水で割って白くなったのを出したんです。「なんだこんなまずいの」って言われました。考えて見ると湿度が違うんですね。アメリカのバドワイザーなんかもそうですが、やっぱりその土地で飲むのがいちばんですね。

中曽根さんに同行取材したとき、イラクからは直接イランに飛行機の便で入れなかったんじゃないかなあ。それでいったんブルガリアの首都のソフィアに飛んで、ギリシャのアテネ経由で、イランに入ったように思います。石油の取材で行ってるんだけど、ギリシャで石油の取材するわけにいかないから、アテネであちこち飲み回って、ふんだくられたりした思い出があります。それで朝、ホテルフロントに集合なんだけど、一人同行記者が起きてこないんです。「佐々木、起こしてこい」って言われて、ボーイといっしょに部屋に行ったら、外国人の女性といっしょに寝てました(笑)。

◆中曽根さんの政治家としてのカン

Q.中曽根さんは石油危機の前の年に中東を訪問しているのですね。

石油危機の半年前の1973(昭和48)年5月の連休中に、イラン、イラク、サウジアラビア、アブダビ、クウエートに行ってます。全部国王などの元首に会っているんです。そのルートが、翌年行く時に生きるのです。当時、ぼくの通産省時代のキャップだった山田尚宏記者(後・経済部長)が同行したのですが、イランのパーレビ―国王に単独会見したことを覚えています。

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Q.そのとき中曽根さんは“石油ショック”の到来を、察知していなかったわけですよね?

そうです。だけど、彼の勘というのは、政治家としてやっぱりすごいですね。当時日本のエネルギーの80%は中東からの石油輸入に依存していたんです。イランからは37.3%、サウジアラビアは16.7%という具合でした。「民族の興亡は石油外交の成否に」と帰国後の「エコノミスト」誌(毎日新聞社発行)の73年6月19日号で語っています。

中曽根さんは、戦争中、海軍主計学校卒業後、海軍中尉としてインドネシアなんかに行ってるから、石油がなくて日本がたいへんだったということは身に染みて知ってるわけです。“無資源国・日本”という安全保障上の基本ポジションというのを押さえていたと言えます。

わたしはその4年後の1977年に政治部に異動になり中曽根派担当になるんです。ある時、二人だけの時、中曽根さんに「あのとき中曽根さんはアラブによくいかれましたね?アメリカのキッシンジャー大統領補佐官などから日米同盟の枠の中で動けと言われていたのに、独自の対アラブ寄り外交を展開できたのですね。外務省の抵抗もすごかったと聞いています。」という質問をしたことがあるんです。

中曽根さんは「1970年代は戦後の第一ラウンドが終わって第二ラウンドが始まったところ。経済大国となった日本は、アメリカ中心という外交第一ラウンドから次の30年間を持ちこたえなくてはならない。そのため無資源国・日本が生きていく上にアラブ産油国の重要性を考えなくてはいけない。日本がこれから30年間持ちこたえるだけの外交姿勢に修正していかなくては―そう考えて取り組んだんだ」と語っていました。日本の安全保障の基点に“無資源国”というあるんだというわけです。その石油の替わりが原子力発電だったわけです。イヤー中々すごいなーと思いました。でもそれも限界に来ていますね。

Q.すると、日本の置かれている基本の立場はわかっていたけど、近々起きうる“石油危機”というとんでもないことまでは、わかってなかったということになりますか?

そう、さすがにわかってなかったですね。ただ、それはみんなそうだったわけです。当時の世界常識としては、アラブの産油国は英米の石油資本(いわゆるエッソ、モービル、シェル、BPなどセブン・メジャーズ)が握り、アラブは完全に抑え込まれていると思い込んでいました。1960年に結成された「OPEC(石油輸出国機構)」が結成されても、メジャーは「我々は産油国の王様を握っている。日本は石油代金さえ払えば供給は大丈夫だ。」という感じで、石油輸出削減を武器に使うなんて思いもしなかった―ということです。

特に日本はパレスチナ・イスラエル問題の深刻さというのが、まったくわかってなかったですね。そんなのは頭の隅にもなくて、メジャーのいうことを信じて、高度成長のイケイケどんどんの中に浸っていたということでしょう。

◆他社とは仲良くつきあいつつ競争も

Q.ところで、石油危機のことに限りませんが、当時の取材競争の中で、他社というのはどれだけ意識していたのでしょうか?「石油危機」の本にある座談会では、三大紙と日本工業(産経)の人が参加していながら、日経の名前が出てきませんが。

日経はなんとなく違う感じでしたね。通産省の記者クラブにも、5人か6人くらい配属されていたんじゃないかなあ。だいたいほかの社は2~3人なんですが。日経は「日経少年探偵団」なんて言われていました。我々は入社後、4,5年地方支局に行って本社に上がってきているんです。日経の場合、そもそも支局は一人支局で、新人の支局勤務がないんです。入社直後の学生気分が抜けていない、われわれの立場からいえば、彼らにとって通産省が記者として最初の“サツ回り”の感じではなかったかなー。我々の仲間よりも5歳から10歳の下の記者が多かった。

だから彼らを率いるキャップも、新人教育が大変で他社の記者と付き合う暇がない様な感じでしたね。日経は若い記者が通産省の中の各局を分担していたんじゃないかな―。記者クラブでは、キャップの指揮下になんとなく固まって動いていたのに対して、我々はいい大人の気分で、一人一人それぞれという感じが強かったと思います。

ただ当時の日経のキャップは後に経済部長、編集局長、副社長になる新井淳一さん。僕と同年代ですが、後年、財界人との勉強会などで一緒になり親しくさせていただきました。でも通産省記者クラブでは、こちらはヒラで新井さんはキャップ。もっぱら当社のキャップの山田さんが「新井ちゃん」という感じで、親しくしていたと思います。

ちょう・まい・よみ(朝日、毎日、読売)と産経、共同、時事の記者は、年齢的に近いということもあって、割と仲がよかったです。とはいえ、競争は競争として当然ありました。

Q.特にどの会社を意識するということはなかったのですか?

新聞記者というのは面白くて、部数の多い新聞社の記者が必ずしもできる人とは限らず、部数の少ない会社の記者でも本当にまじめで信頼のおける記者もいて、会社ではなく個人の記者として付き合うという関係だったと思います。その辺が普通のサラリーマン社会とは違っていたと思います。

それと会社にいる時間がほとんどなく、取材先にいることが多いわけで、他社の記者と仲良くならなくてはしんどいですね。だけどその関係が微妙で、特ダネなんかは絶対話さないですからね。あとで「俺とお前の関係じゃないか、水臭い」なんて冗談めかして言われたりしますけどね。お互い様ですよね。

◆得がたい記者仲間たち

他社の記者で思い出すのは、やっぱり今や評論家としても著名な朝日の船橋洋一さん(後同社主筆、現アジアパシフィック・イニシアティブ理事長)、読売の中村仁さん(後・経済部長、読売新聞大阪本社社長)、産経新聞の美濃武正さん、共同通信の米倉久邦さん(後・経済部長、論説委員長)、NHKの中村侃さん(後・報道局総務部長、アナウンス室長)だとかについては、何を取材してるのかなとか意識していたですね。このメンバーとは通産省クラブを出てからも、定期的に当時の通産省幹部と“割り勘”での定期会合をやってました。幹部の方が亡くなって自然消滅しましたけど懐かしいですね。

記者仲間では、特に朝日の船橋君は、かれはそう思っていなかったかもしれませんが当方は一番のライバルと思っていました。本当にコマ鼠のようによく省内を回って特ダネを書いていました。石油危機の時も「後楽園(現東京ドーム)のナイターの火が消える」とか、「自衛隊の空の演習中止」など一面ものの特ダネをよく抜かれました。彼は、熊本支局で、毎日の政治部出身で後年、TBSのニュースキャスターとして有名になる故・岸井成格君と一緒でした。そこでアメリカ人の奥さんをもらうのです。

おかしいのは朝日のクラブのデスクは毎日と隣り合わせなんです。他社の電話には出ないのがマナーなんですが、ある時、あんまりうるさいんで出たら英語なまりの日本語で「ヨウイチはヨマワリですか?」「そうです」と答えてガチャンと切ったことありました(笑)。

でも彼は仁義に厚い男で、後年サントリー学芸賞を受賞した「内部」、吉野作造賞の「通貨烈烈」などの本を出すたびに自宅に送ってくれました。ぼくが、終戦3日後に射殺死体で見つかったカトリック神父・戸田帯刀師のことを書いたノンフィクション『封印された殉教』を出した時、「英語に訳してバチカンに送れ」という手紙をくれました。嬉しかったですね。

共同通信の米倉久邦さんは、一橋大学名誉教授の米倉誠一郎さんとは親族。数年前、日大のアメフットボールの不祥事で記者会見の司会を日大広報部長としてやり、詰めかけた報道陣とケンカになり袋叩きになりました。記者時代と同じ態度でおかしかった。でも彼はナチュラリストで、自然を愛して森のこと、山のこと、本を何冊も出しています。素敵なロマンティストなんですよ。

読売の中村仁さんは僕の高校の後輩なんですが、思い切りのいい、スパっとして切れのいい原稿を書いていましたね。今でもニュース解説的なブログをずっと書いているんです。先日「格安スマホ加入でドコモに怒り」というNTTドコモの格安スマホ「アハモ」の加入についての体験記を書いたところ、「年寄りがシステムを知らずに書くな」と大炎上。ネットで話題になりました。でも全然へこたれないで書き続けています。偉いと思います。

みんな年とっても頑張っています。

産経の美濃さんはこういう仲間と、通産省の幹部との会合のセット役をやってくれていて本当に有難たかったですね。確か東北の石巻の出身で3.11の時にお兄さんが亡くなられたという事で、当時の仲間に呼びかけて見舞金を送ったこともあります。ここ2,3年、携帯での連絡がつかなくなったんですね。どうされているか。


こういう人たちと一緒に仕事ができたことは、ぼくの誇りですね。

Q.記者としては日経だとか朝日だとかいうのでなくて、個人を意識していたということですね?

どっちかというとそうですね。取材先の方も、特に通産省は政策をアドバルーンで流さなくてはいけないので、新聞記者をうまく使いわけるのです。それを朝日に書かせるのがいいか、毎日に書かせるのがいいか、読売あるいは日経、産経がいいのかなど考えて、こういうネタだったらどこどこの方がいいぞというようなことはあったような感じはしますが・・・。そういう意味では、各社とも切磋琢磨していましたね。

発表原稿だったりすると、各社の記者仲間同士で「これどこをポイントにするかなあ。やっぱりこれだろ」なんて言いながらやってました(笑)。同じような原稿が掲載されるはずですよね。

◆記者にとって麻雀とは

Q.当時は記者クラブにはどこにも麻雀台があったようですね。最近話題の・・・黒川東京高検検事長と朝日新聞、産経新聞の検察担当記者やOB記者が、記者の自宅で一緒に麻雀をやっていたことが週刊文春にスっパ抜かれて黒川さんが検事総長に昇進できなくなりましたよね。

そうそうアレにはびっくりしたな。いまどきまだあんなことやっているんだーという。当時、麻雀やるのはだいたいキャップでしたね。手下の記者は省内をコマ鼠のように回ってネタとり。キャップは電話番のようなもので、クラブにいることが多いので、キャップクラスが卓を囲むという事になります。

Q.キャップ同士ということですか?

そうです。でも下っ端の記者も原稿を書き終わり、手がすけば参加しました。よくやりました。官庁の中で昼間からかけマージャンをやっているんですから、天下公器の新聞記者もいい加減なものですね。でも当時はほとんどの記者クラブにマージャン卓はありました。

でもおかしかったのは政治部に行って、自民党担当の平河クラブが国会開会中は、平河町の自民党本部から国会内に移るのです。そこにも、雀卓がありました。廊下に近いところにあり、ジャラジャラやっていると国会見学の小学生が壁越しにその音を聞きつけて「センセイ!麻雀の音がします」。これにはまいりましたね(笑)。よく当時話題の五つ子のパパのNHK政治部の山下頼光さんと囲んだことを思い出します。

Q.佐々木さんの家に向こうから来て麻雀をやるなんてことはなかったですか?今度の事件みたいに・・・。

来て欲しかったねえ(笑)。

ああいうのはやっぱり、役所の関係で起きるんじゃないかなー、経済部で特に民間経済担当だったら、取材対象者が来るってことはほとんどありえない。と“チンピラ記者”と経営者とは年が離れているし、収入レベルも違うし‐‐‐。でも役所と新聞記者は持ちつ持たれつの関係という側面が多いですからね。

Q.私のイメージだと新聞記者は賭け麻雀をざらにやってるんじゃないかという気がしますが・・・

そりゃあザラにやってます(笑)。世間でやっている人で賭けてない人いないんじゃないかな(笑)。

Q.確かに、健康麻雀なんていう言い方があるのは、賭けない麻雀というのが例外ということですね。

記者クラブでの麻雀というのは、黒川さんたちが腰を据えてやっていたのと違って、トンナンシャーペー(東西南北)がなくて、一回ごとの清算でいつでも入ったり、抜けたりしていいんです。“チャカラ・マージャン”とよんでましたがね。振り込んだヤツが抜けて、入るようなシステムになっているわけです。事件の呼び出しあればいつでもやめられるわけです。逆にいえば、事件がなくて、入るやつがいないと、いつでもやめられないんです(笑)。いまはクラブには雀卓がほとんどないようですが・・・。

だけど新聞記者の自宅にノコノコ出かけて、雀卓を囲むというのはどういう神経しているんだろう。今回のことはちょっとびっくりしました。

◆書かせたい通産省

Q.企業ものだとスクープ競争があったりすると思うのですが、通産関係ではそんな感じではないということでしょうか?

いや、それはありますよ。通産省が産業政策のナントカ方針を決定するとか、国民生活安定法みたいなのを出すとか、また電力、ガス料金などの料金改定というようなことになると抜き合いになります。
ある社では、夜中に、ウソかホントか知らないけど、クラブの部屋の鍵を持って各局、各課の鍵穴に入れて、あくところがあるかどうか、省内中を回ったというんですね(笑)。そうしたら偶然あったとか それがホットニュースの担当課で、課長の机の上にあった「原案」をかっぱらってきたとかいう話、ホントかどうか笑い話的にありましたね。ホントだったら刑事事件ですね(笑)。

だけど、通産省は政策官庁だから大蔵省みたいに口は硬くないですネ。大蔵省は常に予算がかかっているし、政治家からの圧がある。ずっと口が硬い。通産省は、情報を流したいので書かせたいわけです。いわば広報をして事前に法案への市民の賛成を得たいわけです。ただ、守秘義務に反するから公式には見せられない。あいつらが勝手に書くという形で口頭で話すわけです。それでも最近は課に入るには、事前に連絡しておかないと、入れてくれないようなシステムになっていると聞きます。情報公開という観点では、もう少し風通しを良くした方が、現在の経済産業省には似合うように思うんですが‐‐‐。

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