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父の命日と母の緩和ケア

今日2023年9月10日は、父の命日です。
3年経つのは、あっという間でした。

昨日は、父の年を超えた
父の弟に会いに行ってきました。

おじさんは、父が大好きな日本酒を
飲んでくれて、父とおじさんと私の3人で
新そばを食べに行ったり、
温泉めぐりをした当時の話を、楽しくしてくれました。

日日薬と言うことばに共感する。
本日は、3年前の当時を振り返ってみようと思います。


3年前の父の最後の入院


2020年の8月下旬。

胃癌の終末期だった父は、3年程チャレンジ
していた抗がん剤の治療を辞めて、
訪問看護と市立病院への通院を併用しながら、
自分と向き合っていました。

私は、父に1日でも長生きしてほしいと思う反面、辛い、痛い状態を少なくしてあげたいと一喜一憂していました。

そんな頃、父から
「もう家に居るのは限界だから入院したい」
と言われたので、市立病院に連れて行きました。

コロナ過なので、終末期とは言えども…面会はできないんです。

私は毎日
「ストローですぐに飲める氷水」と「アイス」を
病院へ届けて、父へ電話をしていました。

はじめは電話が通じていたので、父の様子が
把握できたのですが、次第と父が電話に出なく
なったので、代わりに内科医との電話のやりとりが続きました。

9月の10日は、
父の緩和ケアの為の転院が決まって、
転院先の担当者と日程の打ち合わせをしたあと、
内科医と話すために市立病院へ向かったんです。

内科医を尋ねると

「かなり痛みを我慢している。
モルヒネを使いたいけど、点滴に触ると
全力で拒否される。」

と、父の様子を話してくれました。

実は父は、祖父(父の父)を同じ胃癌で
亡くしているんですね。

食がだんだん細くなっていく
祖父を見ながら、麻薬で弱っていく様子や、
肺に転移して苦しんでいるのを目の当たりにして
「自分は麻薬を使わない」と決めていたんです。

私は、その話を先生から聞いて、
すぐに担当看護師にお願いして
一芝居しようと提案しました。

栄養を補給してもらえるように頼む設定で、
痛みを和らげてもらおうと、必死に考えた策でした。

すると、内科医は

「いつ亡くなってもおかしくない
体力だから、病院に泊っていいよ」

と言ってくださったんです。

ありがたい、奇跡の一言でした。

看護師さん達も協力してくださって、
父のベッドの横に簡易ベッドを置いてくれたり、
妹や弟家族も面会に来られる体制を整えてくれました。

いよいよ、父の痛みを和らげる大作戦の決行です。


父の痛みを和らげる大作戦は失敗:空飛ぶ「せん妄」


「いよいよ…看取り看護の時期なんだな」

私は、ぼんやり考えながら、
案外しっかりしている父とは、何でもない話をしました。

妹達が、面会に来るよとか、
弟家族が面会に来たよね?とか、
病院に居る方が涼しくて快適だよとか、どうでも良い話をしました。

その合間に、看護師さんに来てもらって
「栄養追加するよ~」と、
点滴にモルヒネを追加してもらおうと
思ったんですが、作戦は失敗におわりました。

父は、覚醒したかのように、その時だけは
「薬の内容を見せて!」
と、全力で拒否をするんです。

私が嘘が下手なのは、父はお見通しなんですよね…

その後の父は、痛みを紛らわせたいのか?
次第に、酸素マスクを口から取り外すと言う行動に出ました。

「だめだよ。酸素を取らないと余計に苦しくなるよ。」
と、なだめてはマスクを付けたり外したり。
何十回と、繰り返されていきました。

「あぁ…父はかなり我慢をしていたんだなぁ…」
と、改めて、父の傍に居られて良かったなと思いました。

しばらくすると、父は酸素マスクを
外しながら私に
「病室から出て行くように」と言いました。

どうやら、病院がまるごと空を飛んでいるようなんです。

すごいスピードで飛んでいるから、
今すぐ病院から逃げるようにと言われました。

「大丈夫だよ。父さんも一緒だから」
と言っても聞きません。
しまいには、妹にも病院に近づかないように
と言い初めました。

「大丈夫だよ。怖くないよ。」
と父の体をさすりながら、遠くを見ている
父の目線を追ってみました。

病室の天井に、誰かが居るみたいに見えたんです。

ふと、「あれ?大阪のおじさん、迎えに来たの?」
と聞くと、父は、はっきり「うん」と、答えました。

あぁ…お迎えの時間なんだと、
私は病室内の空気と言うか…
空気?エネルギーで、そう捉えてしまいました。


父のさいごの言葉は「水」


父は私に「水」と一言だけ
ぼそっと呟いて、空を指さしました。

私は父に、氷水を入れたストロー付の
マグボトルを持たせると、
父はものすごく勢いよく
「ゴクゴクゴク」と、3口豪快に飲みました。

3口目で、目が白目になり…
息が詰まるリアクションをしたので、
ナースコールを押しました。

ちょうど、モニターのアラームを
確認しに来た看護師さん達が、
痰の吸引などの処置をしてくれましたが、
父の意識はなくなりました。

あっけない…本当にあっけない。
父の意識がなくなって、私は「ん?」と
自分の思考がついていきませんでした。

看護師さんへ、
「兄弟に連絡を取った方が良いですか?」と
聞いて、妹と弟に電話をしました。

電話をしてから、家族みんなが集まって
約1時間後に
父は息を引き取りました。


実家から追い出された父の初七日


父の旅立ちに着いて行けないもう一人の人。
母です。

生前、父より
「母は病院へ連れてこないように」と
厳しく言われていたので、
私も妹も弟も、その言いつけを守ってしまいました。

母は、かれこれ30年程、統合失調症を
患っているので、通院自体が苦手です。

そのため、父は世間に迷惑をかけては
いけないと思って、病院への立ち入りを
禁止したんだと予測します。

父の葬儀の最中は、母も落ち着いていました。

初七日になって父の遺品整理が終わった
途端、夜中の2時頃でしょうか…
いきなり私の部屋をガラっと開けて
「父の看取りに立ち会えなかったのはなぜか?」と叱責されました。

「父の指示だった」
と言っても聞いてはくれません。

ややしばらく泣き叫ぶ状態が続いたので、
やむを得ず近所の弟に連絡しました。

それでも落ち着かない母を見兼ねて、
私は360キロ離れた自宅に戻ることにしました。

帰り道は、複雑な心境で6時間ほど、
車を走らせて帰宅しました。

朝の9時頃に自宅へ着くまで、
弟は何回も「眠っていないか?大丈夫?」と心配してくれました。

人の気持ちが抑えきれないのを、目の当たりにした出来事でした。


母も胃癌に


父を見送ってから3年、2023年の1月。
こんどは、母の胃癌がみつかりました。

母は、6年前に乳癌を患っていましたが、
再発癌なのか?は不明です。

病気が見つかった時に、私は思わず
「父の策略か?」と思ってしまいました。

それから兄弟で話し合いをして、
私は母の介護のため
実家へ出戻るハメになってしまいました。

実家に帰りたくない葛藤


自分で覚悟をして引越を決めても、
諦めきれない思いは、ややしばらく消えませんでした。(今は大丈夫です)

職場の仲間達…
その土地でやってみたかったこと
1人のチャレンジなど

当時考えていた計画がなくなって、
理不尽な思いを消化するのには、時間がかかりました。

その反面、妹や弟とは、
私の母に対する思いの温度差が
気になってしまい、統合失調症は
恐ろしい病気だなとも思いました。

兄弟は、2人とも母の面倒を見たくないと言います。
そのぐらい、母は病気のせいで家族に辛く当たってきたんです。

私は、そんな母を家で看取ることが
果たしてできるのか?と不安には
なったものの、見捨てることはできませんでした。

今は、穏やかに病院で過ごす母を見て、
実家に帰って来て良かったと思います。

母の緩和ケア


母は、カタコトだけど電話もできるし、
歩くのは難しくなりましたが、病院で幻覚を見ることはなくなりました。

以前は、入院しただけで
「誰かに襲われる」とか
「点滴におかしなものが入っている」
などと、勝手に自分で点滴を抜いてしまったりと、病院側からは要注意人物と特定されていました。

ですが、今は生前の父と同じように、
痛みと戦い、自分と向き合っている時間なんだと思います。

私は、3年前から比べると
精神的にはかなり強くなりました。

一喜一憂するのも、自分で気持ちに
気づけるようになりました。

何にもできないけれども、冷静に色々な
出来事に向き合えるようにも、なりました。

人は、1つ困難を乗り越えると
成長すると言うのは本当だと思いました。

まもなく旅立つ母の介護は、
今を見つめてじっくり向き合っていこうと思いました。




























面会は出来ないから、父の様子を見るのに病室に泊っていいよとも言ってくださいました。

「ようやく父に会える…と思いながら、いよいよ覚悟もしなくては」と複雑な心境で、泊る支度をしに家に帰りました。

同時に、短時間の面会の許可をもらったので、妹と弟家族に連絡をと


約3年もの間、自分と向き合い抗がん剤などの治療に専念しました。午前中、



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