giftedやHSPが個性の一つだと思うことについて

子供の頃から気づいていたことが名付けられると世間の認知度が上がった

子どもの頃から自分が突出した集中力や妄想癖、感度の強さを持っていることはわかっていたけど周り見えなくなるし、感激やさんで夢見る夢子ちゃんみたいで恥ずかしいと思っていたんです。

地に足ついてないよなぁって自覚はありましたね。勉強も運動も苦労はなかったけれど、給食や家庭科は自分が人間かと疑うほどに苦しんでいました。

新しい触感や臭いがダメだし、一人一人の臭いや食器のプラスチックやアルミ臭が気になります。わたしが子どもの頃は三角食べといって、ご飯とおかずと副菜を等分に食べることを強いられていたんですが、触感や臭いがごちゃ混ぜになるので地獄のようなルールでした。

家庭科はまともに完成したのはエプロンまででシャツ、ズボン、マフラーは未完成のまま。三次元に縫い付けたりメビウスの輪みたいになって、先生から「どうやったらこうなるの?」と聞かれても自分も知りたいと思うくらい異次元の不器用さでした。

「そんなことも知らないの⁉︎」と呆れられることもあり、「天才だ!」と賞賛されることもあり、全てが極端で自分の特色は残念ながらこの時代には合わないし、活用するところもないと結論づけていました。

わたしはこの社会ではみんなの期待には応えられないし、応える気もないーーーーー

期待している人を気の毒に思い、子どものうちが花だなーー今が死に時だなーーと考えている子でした^^;

生きるのが大好きだから、みんなの期待には応えられないけど、生きさせてもらうよ〜って思ってたんです。

giftedとかHSPとか名前がついたところで優劣はないし、解決もしない

最近、giftedだねとかHSPだねと名前づけされるようになりました。ボクもワタシもそうだよと声かけてもらうこともあります。

名前がついただけ。でもそれで生きやすくなったり、悩みが軽くなった人がいることは事実です。

ただ、それが免罪符になるわけでも解決策に結びつくわけでもなく、どう現代社会で自分がありのままで活き活きと特色を発揮できるかは自分次第なんです。

絶えず模索し、自分とは真逆の世間の常識に窒息しないように心がけることにはなんの変化もないんですよね。

giftedもHSPも発達障害も身体障害もADHDもその他もどこにも優劣はなくすべてはフラット。名前がついてそうではない人にわかりやすくなったことは確かにそうですけど、その人の悩みが解決するわけじゃない。

当事者としては自分らしく生きながら社会の循環の中でどうやったら悔いなく行動できるのかをいつも考えています。

悩んでいる人にとってこの後ろ姿が元気を与えるものであるならそれはうれしい。なので、臆せず公言していこうと思います。

そういう意味ではやっぱり名前がつくと見つけやすいし、理解されやすいかもしれませんね^ ^

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