Ph.D持ちの会社勤めです。

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最近の記事

僕の書いた文章など誰も読みたくはない

「本日ハ快晴也」という文は、きょうが快晴であることを伝え、それ以上でもそれ以下でもない。 適切に活用させた品詞をSVOに当てはめると、そこにある種の情報の伝達が任される。 本来、文章とはそういう無機質の連なりである。 人間は根源的にさみしい存在だ。 自分の念慮することは「SVO」程度ではないと、誰しもが心から信じている。 わかってほしい!相手の心を動かしてみせたい!という欲求が、常にわだかまっていている。 文章表現者という生き物は、文章をしたためる際、この欲望を発露させ

    • ルックバックで感動できないやつ

      チェンソーマンの藤本タツキ原作の漫画「ルックバック」が、先日劇場版になって公開された。 僕はまだ観に行っていないが高評価を得ているらしい。原作の完成度を鑑みれば当然である。 公開されてからそこそこ時間が経ったが、まだTwitterでは鑑賞の余韻を噛みしめる感想が流れてくる。 それだけ人々に刺さる良作品ということだ。漫画としてもとても良かったので、映画も観に行きたいものだ。 とは言うものの、僕がルックバックの映画を見たところで、おそらくほとんど感動しないだろう。 なぜなら僕は

      • 泣くとは何か

        人はなぜ泣くのか。 僕自身は、ほとんど泣くことが無い。大学受験で合格したときも、博士研究で行き詰まったときでも、無事博論を脱稿して修了したときでも、涙が出てくることは無かった。 でも、映画を見てるときはよく泣く。あとは、生オーケストラ演奏を聴くときとかは、自分でびっくりするくらい泣くことがある。 泣くとは何だろうか。なぜ僕らは泣くのだろうか。 悲しいから泣くのだ、では理由にならない。嬉し泣きと言う現象があるからだ。 また、悲しければ・嬉しければ常に泣くのかというとそうではな

        • 昔話と古傷

          少し子供の頃の話をしよう。小学校1年か2年のころだと思う。 俺は、お喋りだけど知恵遅れ気味でコミュニケーションが下手な子どもだった。記憶はおぼろげだが、人の話題に気を配らず思いついたおしゃべりをのべつ幕なしにし続けるようなそんな餓鬼だったはずだ。 姉が、ある時を境に俺を「そーいうのKYって言うんだよ」と批判し始めたのだけはハッキリ覚えている。KYは「空気が読めない」のことで、当時やたらと巷に広まっていた言葉だった それからというもの、姉は、事あるごとに俺のことをKYだ、KY

        僕の書いた文章など誰も読みたくはない

          インターネットは趣味の在り様を不幸なものにしたか

           少なからず誰にでも、自分なりにこだわりを持ってやっている趣味というものがある。映画鑑賞、演劇、読書、料理、楽器、ゲーム、漫画、アイドル、登山。今も昔も大して変わらないラインナップが揃っている。  一方で、現代人の趣味においては特有の事情が取り巻いている。それは、インターネットのせいで自身の趣味を「趣味」と名状していいのかわからないような気がしている、というものである。  インターネットがさながら包囲網がごとく身近に張り巡らされた結果、求めてもいない情報があちらの方からこっ

          インターネットは趣味の在り様を不幸なものにしたか

          会社の新卒研修で致死量の初対面を摂取するのがキツい

          社会人1年目が始まった。4月にやることと言えばそう、新人研修である。 新卒としてこの春就職した僕は、今、研修の真っただ中である。 それにしても、こんなにキツいものとは思わなかった……。 役員からありがたい講話を受けたり、講義と題して業務内容を頭に詰め込まれたり、グループワークで「絆を深め」させられたり。僕は4月のいっぴから今日まで、毎日そういうことをしている。つまらない部分もあるが、ちゃんと得るものはある。だから、研修自体に特段不満はない。 だがキツい。 最もキツいと感

          会社の新卒研修で致死量の初対面を摂取するのがキツい

          『暇と退屈の倫理学』覚書: 暇な人間における「惨めさ」を行為に基づき再分類する

          これは『暇と退屈の倫理学』という本の覚書である。と言っても、第一章「暇と退屈の原理論」の [苦痛を求める人間] という節までのまとめであり、本の全体の十分の一にも到達していない最序盤までの部分に該当する。興味のある人はご自分で購入されることをお勧めする。 人間、暇になれば退屈する。それで気晴らしや趣味に興じ始める。 だが、パスカルによればこれはまったく「惨め(ミゼラブル)」であるとのことである。 暇と退屈に起因する「人間の惨めさ」として、この本では簡単に3種類の「惨めさ」が

          『暇と退屈の倫理学』覚書: 暇な人間における「惨めさ」を行為に基づき再分類する

          noteの「いいね」数について

          noteを始めて3年弱経った。これまで書いてきた様々な文章の中には、「いいね」が多くついてるものもあれば、そうでもないもの、全く評価されてないものもある。 伸びない文章がなぜ伸びないのか、ということについては、形式上のまずさに原因があると、少し前までは考えていた。 段落組などの文章の構成が不出来で、言わんとしてることが伝わりづらいために、あまり評価されないのだろう。 そうした考えから、noteの文章では、なるだけ形式を整えることを心がけてきた。 しかしながら、比較的形式が

          noteの「いいね」数について

          絶対に卒論を「ゴミ」呼ばわりすべきではなかった

          「俺の卒業論文はゴミ以外の何でもない」 ありふれた嘆きの声である。僕も自分の卒論を「ゴミ」と断言していた。 今、僕は博士課程を終えようとしている。いろいろあったがとりあえず博論として研究成果を纏めることができた。卒業論文の頃に比べれば、ずいぶん成長したものだと思う。 卒論を書き上げた頃は 「成長して振り返ったとき、きっとこの卒論は今以上に『ゴミ』に映ることだろう」 と思っていたのだが、実際のところそうでもない。確かに僕の卒論は科学論文の体を成していないし、酷いところも結構

          絶対に卒論を「ゴミ」呼ばわりすべきではなかった

          そんな時間ねえよ

          noteのシステムがお節介を焼いてくれた。 こちとら明日が学位審査なので、勘弁してほしいと思った。

          そんな時間ねえよ

          配偶者と構築した関係性が社会的な批判の対象となる

          博論最終稿提出まであと7日。こんな文章書いてる場合じゃないんだけど、飯を食ってても電車で移動してても、ずっと喉に引っかかるような感覚があって仕方ない。それは以下の件に関係してである。 先日、このお方の投稿が炎上した。 「女性Ph.D持ちが事務職にいることをよしとしている」という旨を問題意識の高い人々に読み取られてしまった結果、炎上したらしい。実際、日本のアカデミア関連職における男女比がいびつなことは確かだ。 今の世間的には、こうしたアンバランスは、不当な男女差別が研究業界

          配偶者と構築した関係性が社会的な批判の対象となる

          ディズニー100周年の最新作『ウィッシュ』は概ね良かったが、終幕における魔法の取り扱いは最悪だった

          ※ゴリゴリのネタバレを含みます。ノーネタバレで『ウィッシュ』を視聴したい方はご遠慮ください。 12/15(金)に公開されたディズニー最新アニメーション『ウィッシュ』を、公開二日後の12/17(日)に同居人と映画館へ観に行った。 同居人はディズニー愛好家なので、ディズニー+のサブスク商売優先の粗製乱造、ポリコレ過多と言った、昨今のディズニーアニメーションを取り巻くきな臭い事情を兼ねてからある程度憂慮していた。 それだけに、ディズニーアニメーションスタジオ100周年の節目とな

          ディズニー100周年の最新作『ウィッシュ』は概ね良かったが、終幕における魔法の取り扱いは最悪だった

          コーヒー型文章と台所型文章

          序 最近の自分のあるある 俺の意見をあなたに伝える。 しかし伝わらない。それどころか誤解されてしまった。 言い方がよくなかったのかもしれないので修正する。 あなたの誤解は解けたように見える。でもやはり伝わっていなさそうだ。 もう一度だ。俺は表現をより明確にしてやる。これでどうだ。 なんと、なぜかあなたの誤解を蒸し返してしまった。 しかもいつの間にか誤解はあなたの中で確信に変わっているらしい。 俺は最初から今までそんなことは一言も書いてないのだが。 こんなことばっかりで、う

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          劣等感に悩む博士課程学生に金を配るべきだと思う

          「自分は人に全て劣っていて、勉学、家柄、人生観、対人能力、何一つ適うものがない」という劣等感を、若いころはよく感じていた。特に博士進学直後は能力不足を感じることが多かったため、こういうえげつない劣等感に苛まれる頻度が高かった。 D2の頃、JST次世代という新しい奨励金制度への申請が晴れて通り、博士課程研究をしながら生活費という稼ぎを得るようになり始めると、こうした考えは無くなった(仕事上の能力のなさを痛感することは相変わらずよくあったけど)。 このことは「金を持つことで衣食

          劣等感に悩む博士課程学生に金を配るべきだと思う

          創作空間の制空権

          もう何度も言っていることだが、俺は創作ができない。これは命題のようなものである。20年と弱冠のこれまでの生活で得てきた俯瞰が俺にこの命題をあくまで直観的にもたらしている。決して理由と論理から導いた結論ではないので、妥当性があるものだろうか、果たして俺自身にも分からない。ならば、俺の人生にあと何年かが足し算された結果、この命題が偽と相成ることだって在り得るではないのか?そんなことを考えているせいで、ますます命題が頭にこびりついてゆく。つまり、俺は背理法に囚われているのだ。 創

          創作空間の制空権

          博士課程学生のためのオススメ本3選

          一般的に博士課程学生は論文を読むべきで、本を読むべきではない。 理解に詰まるときとか、息抜きが欲しいときは、本に頼ることもあるが、そういった読書に費やす時間は現実の必要性に迫られての「仕方なし」の時間であり、無しで済むに越したことはない。だから普通の読書行為は、基本的には時間の浪費である。 僕自身は、知識は乏しく、息抜きなしには生きていけない、という理想から程遠い学生だったので、そのたびにさまざまな本を読んで時間を浪費してきた。 そういう浪費がたくさんあったこと自体、博士課

          博士課程学生のためのオススメ本3選