配偶者と構築した関係性が社会的な批判の対象となる

博論最終稿提出まであと7日。こんな文章書いてる場合じゃないんだけど、飯を食ってても電車で移動してても、ずっと喉に引っかかるような感覚があって仕方ない。それは以下の件に関係してである。

先日、このお方の投稿が炎上した。
「女性Ph.D持ちが事務職にいることをよしとしている」という旨を問題意識の高い人々に読み取られてしまった結果、炎上したらしい。実際、日本のアカデミア関連職における男女比がいびつなことは確かだ。

今の世間的には、こうしたアンバランスは、不当な男女差別が研究業界に蔓延っていることの顕れとして取られている。
要は社会的にこの問題は「"みんな"が批判しなきゃいけないこと」ということになっている。現代社会でこの話題を公に取り上げたならば、必ず批判を行うべきだ。現代的で模範的な市民として振舞う上ではそれが正しい。

この方は本事案に関係し、批判的意見を挟まないどころか感謝のコンテクストを混ぜて投稿してしまったことで、炎上する羽目になった。

個人的なお気持ちの表明、まさに「つぶやき」が、このような苛烈な批判を浴びる対象になったことは、気の毒に思う。

ただ、ネットに意見を放流するにおいて、世の中の流れを考慮に入れそびれたという落ち度があったことは間違いないし、ご本人が冷静に認められている所でもある(自らの落ち度を的確に把握し認めるというのは誰にでもできることはないので、本当に立派な方なのだろうと拝察する)。

さて、俺はこの件で暗い気持ちになっている。
それはなぜかと言うと、まず前提として、俺は婚約をして同棲している彼女がいるのだが、
客観的に見て、自分と彼女とが、数年かけて互いに折り合いをつけながら構築してきた関係性が、炎上してしまったこのお方が配偶者と築かれたものと同じ類のものだから
そして、
彼女との今の関係性を個人的には最良と考えていたのに、世間的には批判の対象となることを認識させられたから
である。

彼女は元教職者で、今は児童福祉や保育の仕事をしている。普段から彼女の職場での出来事を聞いているが、(上司が逃げたりとかしたせいとのことだけど)3年目で現場の管理もできるくらい有能である。児童対応、保護者対応、職員管理、それぞれのことに、しっかり考えを持ったうえで仕事をしている。
はっきり言って、彼女は天職に就いたに違いないと思う。

一方俺は。
付き合い始めた当初(D2になる前くらい)は「アカデミアで研究を続けたい」という意向を彼女に伝えていた。彼女は「なんだか楽しそうだから、どんな勤務地になっても着いていく。海外だろうと途上国だろうとかまわないよ」と言った。
俺は本当かよ、と思いながらも、素直に感謝しつつ、ぼちぼち博士研究を頑張ることにした。

それがD3の冬になると心変わりし「やっぱりアカデミアには行かないことにしようと思う、就職するよ」と伝えたのだが、彼女は「わかった、塩が元気に、後悔なく過ごせるのが私の一番の望みだよ」と言った。
D4の春に首尾よく就職が決まったときは、一緒に喜んでくれた。

今、D4の修了目前の時期なわけだが、来年4月からの新生活に備えるために彼女はこの冬に仕事を辞めた(しっかり引継ぎして、安心して働ける環境を残して辞めたようだ)。
俺が働き始めてから、彼女が定職に就くかどうかについては、確定していない。扶養に入ることの税制上の利点とか、子育て計画とか、そういうのを見て柔軟に決めよう、ということになっている。

断言するが、俺も彼女も、お互いの判断において、1度も強要してなどいない。それぞれが自分で判断して、お互いにとってどうするのが一番いいか、その都度納得行くまで話し合うというプロセスを繰り返して、全体としてはこういう道のりを経てきた(これはどんな夫婦でもできることではないので、お互いに近しい価値観を持っていて良かったと思う)。

俺の就職先は、まぁ産業としてはそこそこ安定してて、給料や福利厚生がちゃんとしている。
一方彼女がいる教育業界は、はっきり言って貧乏産業で、福利厚生はあってないようなもので、やりがいはあるし子どもはかわいいけど、しゃかりきにキャリアを追い詰めても、生活の多くが犠牲になる。
だから、俺の稼ぎを柱に、彼女は適宜教職や保育士の免許を活かして自由度高くやっていく、というのが都合が良いわけである。
それに子育てが始まってからも、俺の就職先は育休が充実してるので、二人で協力が取りやすくなると思われるのも好都合である。

そんなことを話し合って、俺たちは判断をしてきた。
だから俺は、俺たち2人についてだけ言えば最良とは言わずともベターな道を歩んでいられていると信じている。
仮に彼女がこの文章を読んでも大体うなずいてくれるだろう(彼女の仕事への適性のことは「言い過ぎ」とか言われるかもしれんけど)。

でも、そういう2人の世界を取っ払って客観的に見てみたら俺たちはどうだろう?俺の都合で彼女の人生を振り回している、という向きを読み取られても仕方ないのだ。
それが、俺の暗い気持ちの根っこである。

何より俺たちの判断の中で「今の日本のジェンダーバイアスに乗っかっちゃった方がいろいろ楽」という気持ちが無かったとは言えない。
例えば「扶養の税制上の扱い」だってそうだ。「男が稼ぎ、女は家を守る」悪しき家父長制を助長する制度と言われるが、俺たちは制度がある以上はこれを利用するべきだと思っている。
ふるさと納税の利用と同じようなもので、明らかな社会悪と認めつつも、個人的な節税のためには利用はやむを得ないという理屈である。

だから社会的には、俺たちが「ベターな道」を取ったことは、結局のところ世間様にとっての「社会悪」に他ならないのだと思う。
そう考えると、気が沈むのである。

とはいえ、社会などというものが、すぐ掌を返し主張をコロコロと変える、ある種のエゴイスティックな王様のようなものであることも、よく知っている。ソ連が瓦解する以前のたかだか100年前には、共産主義を夢の世界の到来と信じる風潮すらあったのだから。

だから結局俺がすべきことは、王様の機嫌を伺いつつ、俺たちの最良を見失わずに、守っていくことに尽きるのだろうとは思う。
だけど、何ともやってられないなあ、という気分になってくる。

以下補足
世の中の文章の主旨を読み取れないアホな一部の人々が、この記事を読んだとき俺について「家父長制バンザイの差別容認マン」と勘違いしそうな気がしてきたから、最後に自分の意見をちゃんと示しておきます。


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