泣くとは何か

人はなぜ泣くのか。
僕自身は、ほとんど泣くことが無い。大学受験で合格したときも、博士研究で行き詰まったときでも、無事博論を脱稿して修了したときでも、涙が出てくることは無かった。
でも、映画を見てるときはよく泣く。あとは、生オーケストラ演奏を聴くときとかは、自分でびっくりするくらい泣くことがある。
泣くとは何だろうか。なぜ僕らは泣くのだろうか。

悲しいから泣くのだ、では理由にならない。嬉し泣きと言う現象があるからだ。
また、悲しければ・嬉しければ常に泣くのかというとそうではなく、僕のように、ほとんど泣くことがない人間と言うのもいる。「必要条件だが十分条件ではない」というやつである。
しかし、悲しくて泣く人と嬉しくて泣く人には、"大きな感情"という共通点がある。このことは留意したい。

では、僕が泣かないのは感情のはたらきが弱いためということにして(多分それは合っているが)、「大きな感情があるから」というので人が泣くことの理由の全てになるかと言うと、やっぱりこれも十分条件ではない。

例えば社会運動家は特定の社会課題に対して強いモチベーションがあり、それを裏付ける大きな感情を必ず持っている。
しかし、彼らは泣いても何の解決にならないことを知っている。だからアクションを起こすことを選ぶ。
このように、大きな感情を抱きつつも、泣くのではなく行動を起こすという人も、現実には一定数いるのだ。だから「大きな感情があるから」は、人が泣くときの理由の1つではあるだろうけど、やはり不十分だということになる。
なお、彼らはときたまカメラの前で涙を流して見せることもあるが、それはそうすることが社会的訴求において効果的であるという打算のためか、あるいは、あまりに感情が大きすぎたときに発生する一過性の過誤である。

さてこのように書いてみたが、少し立ち止まってみると、「泣いても何の解決にもならない」のに「あまりに感情が大きすぎるがため」に泣くことがあるとは、一体どういう原理があるのだろうか。
そもそも「あまりに感情が大きすぎる」とは、何との比較で言えるのか。

人は関心事ごとに、自分の中に感情の"ダム"を持っている。
感情とは上流からの水である。感情が大きいというのは、ダムの上流で空が荒れているとかで、インプットスピードが激しいときに起きる。
ダムが溜まっている状態は大きな心理的ストレスをもたらすらしく(「胸が詰まる」という感覚はおそらくこれと相同である)、人は具体的なアクションを取ることでダムの放水を試みようとする。
しかし、放水をうまくできないとどうなるかというと、それは当然、決壊である。この決壊こそが、泣くという「何の解決にもならない」行為の正体である。

このように仮定してみると、いろいろと合点がいく。
そもそも泣くという行為は能動的ではない。例えば3歳やそこらの子どもは、転ぶと、一瞬目を丸くしておどろいたかと思うと、次の瞬間にはワーッと泣き始める。あれは能動的に「よし!泣こう」と決めているのではない。単に子どもはダムがあまりに小さいために、少しの感情で速やかに決壊してしまうのだ。
これを踏まえてみると「泣いても何の解決にもならない」という表現はある種のトートロージーかもしれない。彼は解決できないから泣いているのだから。

つまり「あまりに感情が大きすぎる」という表現は、
 ・感情の大きさ
        に比して、
 ・今起こせる行為
        が間に合っていないこと、
具体的にはその行為の
   ・内容の適当さ
   ・遂行速度
のどちらかあるいは両方が間に合っていない状態の形容であると考えられる。

悲しくて泣くのであっても、嬉しくて泣くのであっても、これは同じだ。
目の前の現実が、感情の形でダムをどんどん満たして苛んでくる。
なんとか放水をしたいが、
・自分が取れる適当な行為がない
 (eg. 転んだ瞬間びっくりしてどうすればいいのかわからい子ども) 
・あまりにダムが早く満たされる
 (eg. 上司に捲し立てて叱責されるかわいそうな部下) 
といったことから間に合わず、決壊してしまう。
ゆえに、泣くとは「現実への降参」のサインであると考えてよい。

飼い猫が亡くなったときに書いたnoteの最後でも、そういうことを書いたことを覚えている。

書きながら、涙が出てくる。これは悲しいのではなくて、最後の別れを通じて、猫が寄せてくれていた親愛を真に感じたからで、それは自分ではどうしようもないことだから、泣くしかないのだ。

僕の飼い猫に対する態度の移り変わり(追記:お別れの日のこと)|塩 (note.com)

このnoteを書いていた時も、実際のお別れのときも、「こんなに親愛を抱いてくれて嬉しい」「かけがえのないものを失うのが悲しい」という、具体的な感情ゆえというよりは、ただただ「自分ではどうしようもないことなのだ」と思いながら、つまり、ダムが必然的に決壊していることを自覚しながら、僕は泣いた。

余談だが、人が映画で容易に泣くのは、映画と言う娯楽のスタイルが寄与しているように思う。
鑑賞中、人は画面の前に縛り付けられ、現実的に取れる行為の一切が剥奪された状態になる。これはダムの放水手段を封じられているのと一緒だ。
そこに感情を揺さぶるコンテンツを流し込まれるのだから決壊するのは道理である。せいぜい、流れた涙をハンカチで静かに拭くしか、視聴者には許されない。これは、オーケストラコンサートの鑑賞でも同じだと思う。
だから僕は、映画やコンサートでなら泣くのだろう。

それでも僕の体験から言えば、ハンカチを使って涙を拭くというワンアクションを取った瞬間に、心理的負荷はいくばくか軽減されるように思う。いかに些細なことであっても、現実に何か働きかけることが、ダムを放水するには有効であることが推察される。

芸術鑑賞とかの現実逃避の中ではいくらでも泣いて問題ないと思うが、いざ現実の中で、課題とか仕事に立ち向かっているときに泣いてしまうのであれば、これはやはり問題だと思う。
泣いたって「何の解決にもならない」。ちゃんと歳を取って大人になれば、泣くより先にやるべきことは、何とかして考え出せるはずだ。

「現実への降参」を取るのは、できれば死ぬ時だけにした方がいい。

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