noteの「いいね」数について

noteを始めて3年弱経った。これまで書いてきた様々な文章の中には、「いいね」が多くついてるものもあれば、そうでもないもの、全く評価されてないものもある。

伸びない文章がなぜ伸びないのか、ということについては、形式上のまずさに原因があると、少し前までは考えていた。
段落組などの文章の構成が不出来で、言わんとしてることが伝わりづらいために、あまり評価されないのだろう。

そうした考えから、noteの文章では、なるだけ形式を整えることを心がけてきた。
しかしながら、比較的形式がよくできた文章であっても、大した数の好評価は得なかった。

そして時間が経ってくると、形式がとっ散らかった文章が、じわりじわりと好評価を得続けているというケースがあることに気づいてきた。
顕著なのは「米津玄師『恋と病熱』について」という記事である。

note執筆を開始して間もない頃ゆえ、その場しのぎで思いついた文をツギハギした、大変不格好な文章となっている。言いたいことの芯が移ろいまくっていて、全体に要領を得ない。
しかし、これがどうにも継続的に好評価を得続けているのである。

文章は形式と内容から成る。
したがって、形式的に劣る文章は内容の方で好評価を得ている、という理屈になりそうだが、それも違うだろう。例えば米津玄師についての文章の内容は、単なる思いつきと所感の羅列に過ぎないからだ。

「好評価の多寡は、文章の良し悪しから決まる」という前提にそもそも間違いがある。

考えてみればとても簡単な話だ。
そもそも、インターネット上の文章の全てに対し質の善し悪しを問う人などいない。興味のない文章はそもそも読まないのだ。
自分が関心のあるトピックだと分かるタイトルをクリックして読む。その上で共感できたり面白かったりしたら、好評価をする。それが普通だろう。

僕なら「○○性樹脂における破断方法に応じた断面の熱伝導性の差異について」というタイトルのnoteは絶対に読まない。
だけど一方で「アデリーペンギンの奇行集」なんて文章は、もはや一切の判断を挟まずクリックするに違いない。

noteというポータルには、創作への関心が強い人が集まりやすいようである。ゆえに、ホットな創作物を主題にした記事はクリックされやすいのだろう。
米津玄師は今をときめくシンガーソングライターだ。彼についての文章となれば読む人も多かろう。

他にも例を挙げると藤本タツキ先生の「ルックバック」について書いた文章がある。

ルックバックは公開されるやいなや熱狂的支持を集めた作品なので、この文章も未だに「いいね」をされ続けている。
そういえばルックバックは映画化も決定したらしいが、それだけの漫画に文章中でケチを付ける形をとってしまったことには、今更ながら恐れ入る。

話を元に戻すと、文章の質に 谷崎潤一郎 vs 僕 レベルで大差がない場合、好評価数とはコミュニティにおいて興味関心を持つ人口の反映である

「Twitterでの爆拡散」という偶発的要因でいいね数の外れ値を叩き出した記事もあるが……これは制御不能な要因なので無視しよう。

これからは、好評価数を上げるために、みなの興味関心のありそうなテーマを取り上げて積極的に記事にしていこうと思う。


…と言うような安直な人間では、僕はない。偏屈で申し訳ないが。

他者評価に引っ張られて己の書きたいこと以外を書く人は、物書きではなく、ジャーナリストである(ジャーナリストの元の語義は「日給取り」。稼ぎのために文章を書く人びとである)。

金や名誉が欲しくて文章を書くのではない。noteへの投稿は、文章を書くのが好きだから始めたのだし、書きたいことがあるから続けているのである。
もし評価を気にして書きたいことが書けなくなり、物書きで居られなくなったなら、僕はnoteを一刻も早くやめなくてはいけないと思う。

凡才なりに書きたいことを書いてる限り、好評価の乱高下は致し方ない、ということなのだろう。
それでもここまで続けてきて、「誰が得するんだよ」な文章に微かでも好評価が集まるというのも、割とオツなものだということがわかってきた。

これからもそんな調子で続けていきたい。




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