米津玄師『恋と病熱』について

この歌が大好きだ。リリースされた日から今現在まで、ずっと聞いている。これ以上なくシンプルで、他にない切実さがある。ポップソングでもクラシックでも、内省的なのが好みなのだけど、自分のそういう傾向を初めて自覚したのはこの曲だったと思う。

調べてみたら2012年の歌らしい。そのとき僕は高校1年生だ。約10年だけど、そんなに長いこと聞いていたんだなあ。

2年前、宮沢賢治の全集を買ったのだけど、かの有名な『春と修羅』の中に、全く同じ表題の「恋と病熱」という一篇があったので、びっくりしたのだった。米津さんの方がタイトルを拝借した形なのだけど、浅学だったので、全集の中で巡り合うまで、借り物のタイトルだということを知らなかった。

賢治が病床に伏す妹を憂いて書いた、何篇かのうちの一つである。

あくまで私見だけど、この詩にあるのは、ただただ押しつぶされるような悲しみだ。死の予感近い病室に漂う異様なおごそかさ、諦念の雰囲気、苦しくて直視できない、そういう賢治の切実さが伝わってくる。

米津さんの歌の方にあるのはそれと全く別種の苦しみなので、賢治の詩と重ねることに、米津さん自身、罪悪感すら感じていたらしい。

「好きなことが少なくなり嫌いなことが沢山増えた」「誰も嫌いたくないからひたすら嫌いでいただけだ みんなのこと 自分のこと 君のこと 自分のこと」、という歌詞に僕は身に覚えがある。恥ずかしいけれど、自分を自覚できたと思って、自分の制御ができなくて、何もかもが思ってたことと違うので、いろいろなことが受け入れられなくなった時期があった。青春の幻と戸惑い、そういうのが誰にでもあったんじゃないか。あれには、ただ耐えるしかなかったので、辛いことだった。

ともすればこんな青臭いテーマに、あの宮沢賢治の、死に瀕する妹に捧ぐ悲しみの詩と、同じ表題を付したことには、ご自身でも言っているように罪というか、おこがましい面もあるのかもしれない。というか、割と罪深い気がする。いっぽうで、青春の、あの胸を締め付けられるような苦しみ、遠景と化すのを待つしかないという諦め、直視できないが逃れることもできないという葛藤は、抽象的かつ個人的で、誰とも共有しがたいところがある(だからこそつらい)。だけど、賢治の詩と表題を重ねることで、そこが一つの合流地点になって、なめらかに通じるようになっているのは、えらいことだ。

まあ、でも、そんな仕掛けに気づかなくても、昔の僕には響いてたわけなので、タイトル抜きにして元々がいい歌なんだよな。あそこまでシンプルなつくりの曲で、心の核をそのままさらけ出すという、過剰なまでの痛々しさが、美しく染みるので、本当にすごい音楽だなと思う。「愛していたいこと愛されたいこと 望んで生きることを許してほしい」最後の一節は何度聞いても吐血モノなので、歌詞を見つめながら視聴してほしい。いや、刺さる人と刺さらない人がいるタイプの曲だとは思うので、未視聴で興味が湧いた方がもしもいたなら、ぜひお願いします。


追記

最後の歌詞は…と書いたが、そういえば、動画版ではCメロ以降の肉声が消されてるのだった。だから動画版は、鬱屈したような状態で終わる。アルバム収録版で突然、それまでなかった歌詞があらわれて、希望へのこれまた青臭いもがきが表出してくる、というニクい仕掛けだったのを、執筆した翌朝の今思い出したので、注記しておく。

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