コーヒー型文章と台所型文章

序 最近の自分のあるある

俺の意見をあなたに伝える。
しかし伝わらない。それどころか誤解されてしまった。
言い方がよくなかったのかもしれないので修正する。
あなたの誤解は解けたように見える。でもやはり伝わっていなさそうだ。
もう一度だ。俺は表現をより明確にしてやる。これでどうだ。
なんと、なぜかあなたの誤解を蒸し返してしまった。
しかもいつの間にか誤解はあなたの中で確信に変わっているらしい。
俺は最初から今までそんなことは一言も書いてないのだが。

こんなことばっかりで、うんざりしてくる。
俺は種蒔きになると信じて自分の意見を伝えるのに、それがむしろあなたの頭にカビを生えさせ、コミュニケーションの土壌に不健康を撒き散らしているらしい。
俺がいくら種を清潔に保とうとも、あなたの脳内で勝手に埃まみれにされてしまうのであれば、カビも生えるし土も腐る。

本論

いい文章とは何だろうか。
日本の国語教育では「いい文章」を書くことが指向される。その好悪は何によって判断されているのか。
実のところ教える側も、教わる側も、よくわかっていないまま卒業を迎えているような気がする。

文章のよさには2種類あると俺は思う。

コーヒー型の文章

片方はコーヒーに似ている。
よい豆を選び、湯温や秤量等の条件を最適化し、最高の手技を経ると、至高の1杯が生まれる。
それと同じで、よい情報をセンテンスに選び、それを明確な表現によって最適化し、最適な配列で呈示することで、コーヒー型の良い文章が生まれる。
西洋的な、論理と正確性に特化した文章であり、手法が一つに決まり切っていることも特徴である。

台所型の文章

もう片方は台所仕事に似ている。
誰でも台所で、毎晩、夕飯をこしらえるとき、最良の材料と手法にこだわることなどしない。冷蔵庫のあり物をひっくり返しては、思いつくまま勝手に煮焼きして、アドリブで味を調え、一汁三菜を用意するだろう。
ある種の文章はそれと同じように、読み手の心中をがさごそとひっくり返し、呼び覚ました後、そこにあれこれと体言止め、比喩、倒置法、空白や"──"などの手法をかち合わせる。
行間に膨らみがあればあるほどよい。読み手の自由闊達な精神の調合に、最終的なすべてを一任する。
それは東洋的な、感性や奥行きなどといった非即物的前提に親和する文章である。

それぞれの適性

これのどちらが優れているか、という問題では勿論ない。
コーヒー型は論文やビジネスに適しているし、台所型はエッセイや小説に適している。もしも小説をコーヒー型文章で作成したら絶対につまらないだろうから読みたくないし、台所型文章で作った論文など読み手に混乱とフラストレーションを溜めさせるだけのゴミである。
そういう得意の違う2つの類型が在り得るという持論を言っているらしいな、という理解をしていただければ、俺はおおよそ構わない。

日本の国語教育で育った人間の所感

他方しかしながら、である。
日本の学校教育では、台所型ばかりを「よい文章」として教授される傾向があるように思う。コーヒー型については受験の小論文対策以外で教わった記憶がない。
俺はこれはあまり良いことではないと思う。
台所型文章にしか親しまなくなると、コーヒー型の文章が正しく読めなくなるからである。

ディスコミュニケーションの具体例(仮想)

コーヒー型文章で「AならばB、BならばC、だからAならばC」が書かれていたとしよう。単なる三段論法だ。
この文章では[AならばC]が確からしいとことが最重要である。
命題A、B、Cは単なる前提命題で、真でありさえすれば問題ではない。
彼にとっては[AならばC]が言えることが大事なのである。

しかし、台所型の文章に親しみすぎた人はどうもそうストレートにいかない。
「ABCときたか。じゃ、次は命題イ、ロ、ハの話が始まるに違いない」
「おや?全くそんな話が出てこないぞ…むむむ。これは悪い文章だ。」

もしA・B・Cがイ、ロ、ハに関係する命題であったとしても、[AならばC]の話をしてるとき、命題イロハは無意味であるに違いない。
しかし困ったことに、台所型文章に馴染んで育った人は、勝手な連想ゲームを脳内で逞しくすることが、文章読解時の習慣になっている。
悪いことには、「書き手も私と同じ連想ゲームのもとで文章をしたためているに違いない」とひとり合点している傾向が強いので、その想像を裏切られると途端にこう言ってくる。
「つまりこれはイロハの話ですから、私にはあなたの理屈が納得できません」

書いた側からすれば、論理[AならばC]を伝えた結果として、イロハを呈示されて論理に否定を食らうのは、意味が分からない。イロハがこの世にあることと、彼の三段論法が納得されないことは、あまりに乖離しているためである。
せいぜい「何か知らんが、命題Aがイと誤解されたのか?おかしいなあ。」と思う外ないので、命題Aが分かりやすくなるように「命題A」と修正版ではゴシックにしたりするかもしれない。
それを見て台所型人間はますます「私の言ったイロハを無視するとは、面白みに欠ける、悪い書き手だ!」という印象を募らせる事態になる。
溝は深まるばかりである。

提言のように見えるが愚痴である

せめて国語教育の場では、コーヒー型文章と台所型文章の2種類について、両方を扱えるように教育してほしい。
というか、台所型の文章は(ちょうど炊事でもそうであるように)「センス」とかいう非定量的な属人的要因でしか教えられない感性依存的なものである一方、コーヒー型文章の作成にいるのは情報選び・センテンス作成・配置という、かなりソリッドな要素のみだから、よっぽど簡単に教えられるはずだと思う。
なのに、受験の小論文対策以外で教わった記憶はない。

あと「起承転結」は全然文章の型として機能しない(「転」を文章の必須項目のように義務教育で教えるのは、誤解を孕んだ文章の書き手を量産させるだけである)ため、あれを文章の型みたいに教えるのもやめていただきたい。
そういえば小学校の先生は「起承転結だけじゃなくて、起承転承転承結もある」みたいなことを言ってた気がするのだが、そんなこと言えるならそもそも型になってねーじゃねーか、という指摘もしておきたい。

最近仕事で文章を書いて読ませたとき、妙な誤解を生むことが多く、どうして伝わらないのかをうじうじ考えていた結果、こうした記事を書くに至った。
そう、以上は全て、愚痴である。

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