ディズニー100周年の最新作『ウィッシュ』は概ね良かったが、終幕における魔法の取り扱いは最悪だった

※ゴリゴリのネタバレを含みます。ノーネタバレで『ウィッシュ』を視聴したい方はご遠慮ください。


12/15(金)に公開されたディズニー最新アニメーション『ウィッシュ』を、公開二日後の12/17(日)に同居人と映画館へ観に行った。

同居人はディズニー愛好家なので、ディズニー+のサブスク商売優先の粗製乱造、ポリコレ過多と言った、昨今のディズニーアニメーションを取り巻くきな臭い事情を兼ねてからある程度憂慮していた。
それだけに、ディズニーアニメーションスタジオ100周年の節目となる今作をそれなりに重要視していた。僕もそんな同居人に影響されて(毒されて?)、そういう目で鑑賞するという自覚を持って映画館へ足を運んだ。

全体としては「観に行って良かった」と思える作品だった。本題より先に、良かった点と悪かった点を箇条書きでまとめる。

良かった点

・「権力の集中」という時代に即した背景設定
舞台となる国ロサスでは王のみが魔法を所持している。民衆は、自分の力ではかなわないと判断した「夢」を王に捧げて、夢が何だったのかすら忘れてなんとなく生きることになる。
月に1度、国王は、夢を忘れ去った民衆のうち1人を選んで、その夢を魔法の力で叶えるイベントを催す。民はそれを楽しみに生きているし、アーシャの祖父のように中々選ばれない人は、毎月ガッカリし続けている。
物凄く乱暴に言えば
従順な民たちは政府が発行している宝くじの当選を夢見て生活している
「宝くじの購入に全財産を税金として持ってかれるから個人的には夢のために行動することができないけど、まあでも平和に生きられてるよ」
という世界観である。

・「個人の夢のあり方」を軸にしたわかりやすいメッセージ性
アーシャは「魔法使いの弟子」志望として国王と面会する。主人公補正もあって国王に気に入られ、「夢」を管理する部屋に招き入れられる。祖父の夢を見つけ、叶えてほしいと嘆願するも「反乱分子を作りかねない」という理由で国王に却下されてしまった。あんまりだということでアーシャは立ち上がる。
また乱暴なまとめになるが要は
「宝くじの当選が、権力者のひとりよがりな選抜で決まっていただと!?ふざけるな!俺たちの夢を、税金を返せ!
「俺たちの夢は俺たちのものだ!俺たち自身が叶えるんだ!」ドンッ!!!
という感じだ。
いや本当に乱暴で申し訳ないけど、でも今どきの大衆にはすごく共感を呼ぶメッセージだろうなー、と鑑賞しながら思っていたし「これ僕たちのことだ、、、」歌詞に共感する中学生みたいになってる自分もいた。

・テンポもほどほど
場面転換に歌を有効活用して飽きさせない工夫は流石ディズニーで、メリハリが効いていてとてもよかった。ディズニー映画ではいつものことだけど、やっぱりこうじゃなくちゃねと安心した。
まあ裏を返せば悪かった点になるのだけど(後述)。

・抑えめのポリコレ配慮
「ポリコレをこれでもかとぶち込むのが昨今のディズニー作品」というのを知っていたので、相当警戒心を持って鑑賞に臨んだけど、そこまで気を張る必要はない程度にほどほどだった。
キーパーソンが殆ど女性だったり、そばかす・褐色肌・身障者・非イケメンだらけ、等々「あーこれがポリコレ要素かー」と思うことはあったけど、そんな気になってしょうがないってことはなかった。
性愛要素がなかったのがデカかったかもしれない。

・音楽と歌
マジでいい。「これもうズルだろ」と思った。

悪かった点

・キャラクターや設定の掘り下げ不足
ストーリーの簡潔さ、テンポ感のためにはしょうがなかったと思うが、
「魔法使いの弟子になるってどういうこと?」
「王様は元々クズだったの?しがらみに揉まれてクズになっちゃったの?」
「スターはなんなの?どうしてアーシャが選ばれるの??」
「アーシャはどうして魔法が下手なの?(後で大問題として触れます)
等々、語られない部分は多かった。
"主人公補正"、"お約束"、という言葉で片付けられる範囲だし、この辺をダラダラと触れてテンポ感が損なわれるのもよくないから、まあ許容範囲かなとは思う。

・細かいアイデアがチープ
具体的に指摘するとこんな感じである。
1.「スター」があまりにも任天堂。
造形も表情の動かし方も、あまりにも任天堂なのである。もしかして任さんとのタイアップ作品か?と思うくらいには……。
2.「夢」が水晶玉って…
描写上都合が良かったんだろうけど、ありきたりすぎる。監修の時点で却下されそうなアイデアだけど、なぜかそのままスクリーンまで通してしまった。
3. オラフ的なキャラはそろそろ飽きてきた
cv山寺宏一の子ヤギのことである。イケボが発せられた瞬間は確かに笑ったけど「またこの手のピエロ的マスコットキャラか~」となった。手法がワンパターン化している。既に賞味期限が切れているので、おどけ要員ならズートピアのナマケモノばりにお作法をぶっ壊すキャラにしてほしい。

・技術不足
素人目にも気になってしまうくらい背景の描写やカメラワークが雑だった。雑と言うか、技術がないのを誤魔化しているのがよく分かってしまった。
ディズニーのアニメをそこそこガチって鑑賞してきている同居人が指摘していたことに
「映像と同期して聞こえてくる足音とかの物音に臨場感がない」
「ライティング(lighting: 光のあて角とかだろう)技術が全然ない」
「森が作り物みたいで全然ホンモノっぽくない」
等があって、これは僕は鑑賞中には気付かなかった。
だがたぶんこうした細かい点が
なんかディズニーアニメーションの割に映像にのめり込めないな…
という感覚をもたらしていたんだろう。
そして同居人が
『モアナと伝説の海』を見れば技術の差は歴然だ
というので帰宅してから鑑賞してみたら、本当に違いすぎて愕然とした。
噂によれば、技術不足は昨今のディズニーのお家事情に由来してるらしいが。これから何とか取り返してほしい……

まあでも、トータルで見たとき悪い映画ではなかったな、と思っていた。
…のだが。

最大の問題点

同居人が「最後の、魔法の杖のシーンあったじゃん?あれだけは許せないわ、私」という感想を漏らしていた。

該当のシーンの大筋の流れはこうだ。
スターとの別れの中でアーシャは貰った魔法の杖を
「この杖、壊しちゃった。ごめん」
と差し出す。
するとスターは笑顔でもう一度魔法をかけ、もともとその辺の木の枝に魔法をかけただけだった杖は、キレイな魔法の杖に復活する。
アーシャは驚くが「え、でも私魔法下手だし…」と遠慮するものの
「いいんじゃない?これから練習すれば。」と仲間たちは笑顔だ。
それでアーシャは、じゃあこれから私は魔法を頑張るね!と気持ちを新たにして、エンディングを迎える。

ハッピーエンドっぽいんだから良くね?くらいに僕は思っていたが、
同居人の解説を聞いていると、段々
「あれ?あの描写やばくないか?」
と考えが変わってきた。

前提として『ウィッシュ』における魔法はもともと国王が独占していた。結局、民衆の理解を得られない使い方をしていたし、スターの出現への焦りがあったとはいえ国王は禁断の書に手を出してしまい闇堕ちしてしまった。
一方、たまたまスターと巡り会ったアーシャも、魔法を手に入れるが、全然使いこなせなかった。
闇堕ちした国王の魔法は強力で、アーシャはからっきしなので、立ち向かおうにもどうしようもなかった。
だからアーシャたちは、民衆を立ち上がらせ、民衆全員が持っている夢と歌の力で国王を倒した。
夢=魔法と解釈しようとしまいと、話の流れとしては、
「魔法は誰かひとりのものであるべきではない」
というメッセージが成り立っている。

国王の魔法がなくなった後も、ロサスが大きく乱れることはなかった。
王妃の機転の利いた治世によって、お互いが手を取り合って夢へ向かって歩いていくことができる、みんなが夢を叶えられる国となった。
もう魔法は必要ないね、よかった、よかった。となったその矢先、

なぜかアーシャが魔法を手に入れてしまった。

しかも、周囲の仲間たちは「それが当然!」と言わんばかりの笑顔でそれを承諾した。

どう考えても矛盾が発生している。
だから同居人は「あの描写は不要だった」と指摘しているわけだ。
なるほど、と思った。
同居人は僕に
「何か好意的に解釈可能だったりしないか、一緒に考えてほしい」
と言うので、一緒に考えてみた結果、
好意的どころか逆に割と最悪な解釈に辿り着いてしまった。

魔法をアーシャが手に入れるときの周囲の仲間の、是非を問おうともしない「それが当然!^^」という笑顔。
最後に魔法を手に入れた主人公アーシャは有色人種である。一方、今作で徹底的に悪役として描かれ打倒された国王は碧眼の白人だった。
ディズニーを取り巻くポリコレ事情も踏まえると、どうしても
あの描写は「これからは有色人種が魔法=権力をふるうべき!」というポリコレ描写だったのではないか?と疑えてしまう。

「アーシャは魔法が下手」という設定を忘れてはいけない。実際がっつり尺を割いて魔法の下手さを描写していた。アーシャはピンチの局面で、樹木にドレスを着せる魔法しか使えなかったのだから。
そんなアーシャに魔法の杖が渡るのを誰も止めない。
「お前たち有色人種は未熟だ」「未熟な者が権力を握るのを誰も止めない。せいぜいやってみるといい」
という相当に嫌味な解釈をすることが可能ではないか?

ポリコレへの過剰配慮をやめると表明したディズニースタジオだが、そうなるまでの間に内部では、エンタメよりポリコレを優先する方針へ嫌気が刺したベテランアニメーターの脱退や、技術でなくマイノリティ性で決まる雇用、等々、あまり健全でないことが起こっていたと噂されている。
そんな噂も併せて邪推するならば「未熟な奴に権利を渡すことが当然とされる」というシーンをぶち込むことで、ポリコレの是非を観客に考えさせたかった

いや、ディズニーは今までのポリコレ傾倒に決別しようとしたのかもしれない。
つまりそれはこういうことだ。
「良かった点」で触れたように、この映画は表面的にはポリコレを薄味にして取り入れている。そこだけ見ればディズニーは相変わらずポリコレが大好きかのように受け取れる。
しかし。あの魔法の杖の描写を幕引き直前で挟むことによって、ストーリーのメッセージ性をポリコレで破壊することを、ディズニースタジオ自身が成し遂げて見せたのである。
「せっかくここまで良い物語だったのに、最後の最後にポリコレのせいで台無しになってしまいました お前らのせいです あ~あ」というわけだ。
つまるところ『ウィッシュ』はメタ的なところで反ポリコレを達成するための映画だったのではないか

同居人は「うわ~、ありそ~」と苦笑いしていた。
こういう解釈を考え、共有するのは(悪趣味は承知の上で)それはそれで楽しいことなのだが、当たってようと外れてようと、こうやって作品の外側を考えさせられている時点で、あの描写はノイズでしかなかったな、と思う。それによってエンタメの根幹、創作作品そのものの良さが損なわれるっていうのはやはりダメだ、とも思う。

リメイクや地上波放映するときにはカットして流す方がいいね、ということで、僕と同居人の間では結論が落ち着いた。

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