創作空間の制空権

もう何度も言っていることだが、俺は創作ができない。これは命題のようなものである。20年と弱冠のこれまでの生活で得てきた俯瞰が俺にこの命題をあくまで直観的にもたらしている。決して理由と論理から導いた結論ではないので、妥当性があるものだろうか、果たして俺自身にも分からない。ならば、俺の人生にあと何年かが足し算された結果、この命題が偽と相成ることだって在り得るではないのか?そんなことを考えているせいで、ますます命題が頭にこびりついてゆく。つまり、俺は背理法に囚われているのだ。

創作とはフィクションである。それにあって必要な能力は2つある。
1つ目は嘘をつく能力である。歴史小説などはいい例だ。歴史の事例とは必ず複数の見解があり得、そのどれも確定的な真と言うことはできない、それが実態だ。しかし、歴史小説の著者は語り手や主人公といった主体を設定し語らせることで、自ら拵えたフィクションを尤もらしくするのである。著者が文筆に長けていることは説得力を増し、その力がたくましいほど、それは嘘の度合いがいよいよ深刻であるということに違いない。これと同じ理由で、"ノンフィクション"というジャンル名がいかさまであることも分かる。
2つ目に必要なのは嘘を信じる能力である。もっと具体的に言えば、自分のしたためた文章に嘘を認めても、削除せず我慢していられる力、それどころか、むしろ自分の嘘の、嘘としての上質さに、満足を覚え微笑むことすらできるような、そういう自己陶酔の力が、嘘を信じる能力というものである。
俺はこのどちらも失ってしまったのだと思う。

文章とは情報である。情報は過不足なく伝わることで初めて、情報としての任を全うする。嘘をつくとは情報のひずみの生成のことであり、事実と違った意味内容を、過不足の"過"か"不足"のどちらかの極性で伝えることである。嘘は、必ず、事実をオーバーに伝えるか、伝えるべき事実を覆い隠す。その意味では、優れた文筆家と、偏向報道のマスメディアとに大差はなく、ただ後者の方が時事的でコンテンポラリだという点で異なるだけだろう。
して情報をひずませることの効用は、受け手に対して、伝えたくない事物をマスキングし、ただ自分が好む事物の心象のみを高めることである。文章で創作ができる人間は、優れた嘘つきであるからして、このひずみを自由闊達に操ることで、受け手の心象すらも自由にものとする、天性の人たらしである。

別に俺に適性がないとは思わない。むしろ俺は本来天性の人たらしで、嘘も方便を地で行く、傲岸不遜の男であった。それでいて世渡りに鷹揚で交友も広く、好意を得ることにも長けていた。むろん創作ごっこにも興じていた。
ただあるときを境にして「疑うべき自己」という執念が、俺の頭に深く根付いてしまったのである。
俺は自分の素行が確からしくあるように生きることに強く執着し始めた。そのためには世の誰もがするのと同じように、仕事をするしかなかった。
この目標が最も叶いそうな仕事として研究を志し、しばらく身を置いた。結果、虚偽と事実への嗅覚が敏感になり、そうして俺はいつの間にか、創作に必要な一切を自ら破棄してしまっていた。

そう、一度捨てたものを拾うことができない、という道理があるわけがないのである。今思うこと、それは、嘘だとか情報のひずみだとか虚偽だとか、これらを嗅ぎ分け唾棄する習慣から得た「俺は創作ができない」という命題と、その背理法に囚われている今の俺は、虚構の横溢する創作空間への、ある種のメタ性を養うようになったとも言えるのではないかということ。それは成長だ。しかし、ならば俺はこれから、この創作空間に対する、いわば制空権を獲得し、自分の知性で虚構をコントロールしなければ、仕事をこさえることはできないのではないだろうか?
今の俺にとって創作はこのような位置づけにある。ただ何も認知せず、己の天性を思うまま走らせることを創作と捉えていたかつてに対し、こうした認識を持ってしまったことで、俺にとって創作は非常に、非常に難しい営みになってしまったのではないだろうか。そのように思われてならない。

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