インターネットは趣味の在り様を不幸なものにしたか

 少なからず誰にでも、自分なりにこだわりを持ってやっている趣味というものがある。映画鑑賞、演劇、読書、料理、楽器、ゲーム、漫画、アイドル、登山。今も昔も大して変わらないラインナップが揃っている。
 一方で、現代人の趣味においては特有の事情が取り巻いている。それは、インターネットのせいで自身の趣味を「趣味」と名状していいのかわからないような気がしている、というものである。

 インターネットがさながら包囲網がごとく身近に張り巡らされた結果、求めてもいない情報があちらの方からこっちに勝手に向かってくるようになってしまった。そのせいで自身の趣味に対する、ある種の自信喪失が発生しやすくなっているのではなかろうか。
 例えば映画鑑賞であれば、最新作から過去の名作、B級クソ映画まで、さまざまな人がYouTubeチャンネルを開設して、訳知り顔で物申したり絶賛したりしている。それを "いつの間にか" 僕らは目にしているのである。ネットのせいで。彼らの映画1本1本へかける熱量たるやすさまじいものがあり(熱量がそのまま再生数=YouTubeの収益 に直結するのだから、当たり前だが)、並大抵の人は「自分のは『趣味』なんて言えるほどのものではないな」と考えを新たにせざるを得ない。
 そういったことから、かつてであれば「映画鑑賞が趣味です」と堂々とできる程度に映画館へ足を運ぶ人であっても、現代にあってはもはや恐縮して「趣味って程じゃないけど。ただ、休みに映画を観に行くって感じです。」と口ごもってみせているのではなかろうか。

 我々凡百は自分のホリデーワーク程度に「趣味」とラベリングしてはいけないと思っているのだ。つまり、現代において趣味とは一つの肩書であり、一つの物事に没頭できる非凡な人にだけ許される特権ですらあろう。

 なお、映画の例えは、僕の話ではない。ただ、映画批評系YouTuberを眺めていると、そういう人がいまどきごまんといそうだな、という考えが、厭でも頭を掠めていくというだけである。頭を掠めるだけで、別に僕は何のダメージも受けることなく視聴しているので、ご安心を。

 僕の場合はコーヒーなのである。
 まあ、試しにYouTubeで「コーヒー」と入力して検索してみて欲しい。これでもかと言う人数が、あれこれと淹れ方なり豆の選び方なりをどうこうしている状況が概観できよう。
 果てには、自家焙煎すら指南され始める。一般家庭にロースターなんてある訳ないだろうに、誰向けの動画なのか?
 ……いやいや、そうではない。再生数を見てみよ。
 『自家焙煎の指南動画』、再生数、n万。
 その再生数に匹敵するだけの人数が、ロースターで焙煎することに興味を抱いて動画をクリックしているわけだ。
 そう、「誰向けだよ」という考えがちらとでも浮かんだ、そのことこそが僕が"その程度"であることの証左に違いない、という道理が成り立つのが当然であろう。

 先日、自宅に友人を招いた。大学時代からの付き合いである。
 手土産にコーヒー豆を差し入れてくれた。聞くところによると、友人もコーヒーが趣味らしく、気の利いた差し入れはとても嬉しかった。
 昼を一緒にした後、せっかくなのでここで淹れて飲もうか、という自然な成り行きになり、僕がドリップコーヒーを振舞うことになった。
 僕はただいつも通りにコーヒーを淹れたつもりだった。だが、友人にとっては僕のあらゆる所作、豆の秤量から抽出時間管理に至るまで、徹頭徹尾に驚きし通しだったらしかった。ずっと目を丸くして僕のドリップ操作を見守っていた。出来上がったコーヒーの味の良さを楽しみながらも、また大層驚いていた。
 そして彼はぽつりと、
 「俺はコーヒーを趣味にしているなんて、言っちゃいけなかったのかもしれないなぁ」
 と言ったのだった。
 誉め言葉のつもりで言ったのかはあまり分からなかった。ただ、自分が、ある悲劇連鎖において何かの機能をしてしまっているのではないかということ、それがとにかく気がかりで、少し狼狽していたからである。

 同時に、"この程度"のことをそこまで大げさに捉える友人が、実のところ少し哀れに思われたのである。
 僕のドリップ技術やギアのチョイスは、自分なりにネットや書籍で調べて身に着けたものだ。特に、YouTubeのドリップ指南動画をあれこれ視聴してみたのは良い学びになったし、格段においしくコーヒーを淹れられるようになった。
 今や容易にアクセスできるはずのその辺の情報に触れてない「自称・コーヒー趣味」の人がいる、僕にはそれがとにかく不憫なことに思われた。
 せめて抽出時の湯温が100℃ではいけないことくらいは知らないと、あまりに報われないではないか。
 そこで僕は何を思ったか、マイ使用器具のamazonリンクをLINEで共有したり、淹れ方の基礎だけざらっと口頭で教授したりと、余計なお世話をフルアクセルで披露してしまった。
 幸い彼は非常にいい奴なので、なるほどわかったと聞き入れてくれた。しかしひょっとすると気を悪くされてしまったかもわからないので、それもまた気がかりである。

 僕らは何かを好きで(あるいは嫌いで)いる限り、上には上がいるという類のエンドレスな劣等感や、自分がその中のどこかに位置していることに、遅かれ早かれ気付くのだろう。
 それは多分いつの時代であっても変わらない。今の時代はインターネットのお陰で、これが相当に把握しやすくなったという特殊事情があるだけに過ぎない。

 こと現代においては、能天気に物事を好きでいる、ということがしづらくなってしまった訳で、嘆かわしく思う人もいるに違いない。
 それは当然の感情だと思う。繰り返すが「知らない方が幸せだった」というわけである。
 だが、いろいろ知識や技術が身についている方が享受できる恩恵の総量はよっぽど多くなるということも間違いない。ノウハウがあるほど、毎日美味しいコーヒーが飲める訳なのだから。

 書き出しでは「インターネット現代人病理」の講釈をぶってみせた。現代人の趣味の在り様があたかも不幸に陥ってるかのように文を書いてみせた。病理かどうかはさておき、構造の描写としては正しいだろう。
 しかしお陰で僕らは不幸になったのか、はたまた幸せになったのか、僕にはいまいちハッキリと分からないのである。


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