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MANZAIはなぜ面白いのか?

M1の決勝戦がもうすぐですね。そこで言語学の一つである会話分析学の立場から、「MANZAIはなぜ面白いのか?」について解説していきます。

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まず、会話分析では漫才の基本である「ボケ」-「ツッコミ」は “Incongruity”-“Resolution” であるとされ、その歴史は1930年代まで遡るそうです。

人間の会話は基本的に”Adjacency pair”、つまりある集団で決まっている形式の応答で成り立っているとされています。例としては、

”あいさつ-あいさつ"(例:「おはよ!」-「おはよう、寒かね〜」」) 

”質問-答え”(「え、あんたも早良区生まれやと?」「そうたい!」) 

 “要求-受容”(「あんさ、ゆめタウンにお使い行ってくれん?」「よかよ!」)

などがあります。

そして「ボケ」とはいわゆる社会でみんなが認識している「当たり前、流れ=expectation」とズレた叙述を行うことであり、相方の"straight man"、つまり「ズレを治す修正屋さん=ツッコミ」がその溝を埋めてあげる。この繰り返しが漫才の基本構造です。

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「もういいや、お前とは話になんねえ、責任者出せ、責任者。」
「先に医者出せ?」(=incongruity、ズレ)
「言ってねーわそんなの!」(=correction、修正) 

                (サンドウィッチマン、「ピザ屋」)


この”Adjacency pair”について、「そんなん当たり前やん。何ゆーとーと?」という人がいるかもしれませんが、この言語行為は例えば「目上の人には敬語を使う」のように、みんなが無意識のうちに積み上げ習得した生活を営むための「社会的ルール」であり、かつ人類の「文化的財産」なのです。さらにこれは文化や言語圏によって中身が違ったりするのです。

さらに漫才と普通の会話の「ジョーク」との違いについて分析します。普段の私たちの会話では、自分のジョークに対し聞き手だけでなくその本人も笑うことがしばしばありますよね。しかし漫才では、主にそれをみている観客(=public)が笑いを発する、という傾向が特徴があります。


つまり普段の会話では自分のジョークを自分で笑うことが「今ジョークを言ったよ」というサインになるのですが、漫才では”sequence laughter”、つまり後続する「他者の笑い」が「これはジョークなんだ」ということを表示するサインとなるわけです。


自分が「面白い」と思うから笑うだけでなく、周りが笑うことで無意識に笑いが誘発される。そのような経験をしたことが皆さんにもあるかと思います。
つまり、漫才の「面白さ」は個人の笑いに加え、他者との「共時的な世界」で生まれる笑いとの境界の沫いで決まることになるのです。

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最後に、漫才の「ボケ」がなぜ面白いのかについて考えてみましょう。

これは実はプラトンやアリストテレスがギリシャの時代から言及してきたことで、「人間は自分より劣り、かつ自らに害のないものに対して笑う性質がある」、この本能に笑いは起因しています。前述の”Incongruity-Resolution”は他のいわゆるStand-up Comedyとは一線を画す構造をしており、これが何種類あるかについての論文も存在します。

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もう一つ。ボケというのは


○”what is expected(予想される発話)”

○“what actually occurrs in the joke”=実際にボケがしているズレた発話) 

という対立構造の中で生じており、この対立でボケが「笑い」を誘発するわけです。この対立構造を”Funniness Structure Model ”(Abe2010)と言います。


ここまで書いてきたことは基本的にTsutumi(2011)の”CONVERSATION ANALYSIS OF BOKE-TSUKKOMI EXCHANGE IN JAPANESE COMEDY”に書いてあるので、博多ぶらぶら食べるついでにでも読んどーてくださいね。


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