yuta okazaki

宮城県でmanacoという団体で子どもの居場所づくりを行っています。 松下村塾みたいな…

yuta okazaki

宮城県でmanacoという団体で子どもの居場所づくりを行っています。 松下村塾みたいな、学校でも(今で言う)塾でもない、学び場遊び場みたいなの作ろうとしています。 野望は、映画館&美術館&図書館&運動場&サウナ&学び場をつくることです。

最近の記事

意外とできない、子どもと関わる上で大事な接し方3選

自分は、子どもの居場所づくりを日頃からやっていて、かつそれ以外の仕事でも子どもと関わっている。 関わる子どもの年齢層は、未就学児~高校生まで。 どの子どもも、可能性に満ちており、日々関わっているだけで楽しいし、自分が幸せになる。 今まで、多くの子どもと関わってきて、これは大事だけど、なかなか実践できない人が多いのではないか、と思う子どもとの接し方がいくつかある。 今日はその中でも未就学児との関わり方を、3つご紹介したい。 個人的な感覚や経験に基づくものが多いので、絶対視する

    • 「習っていない」に強烈な違和感を感じる話

      子どもたちが勉強や宿題をやっている姿を眺めていると、よく目にする光景がある。 ある問題に手が止まり、「これ習ってない!」と言って、問題集やワークを閉じてしまうのである。 お子さんがいる方や教育に携わっている方なら、日常茶飯事の光景ではないだろうか。 個人的に、この場面に出くわすと、強烈な違和感に襲われる。 これでいいのか…?という感情に苛まれる。 この違和感について、今日は言語化を試みたい。 私はなぜ、この場面に強烈な違和感を感じるのか? その源泉は、「習っていないこ

      • 人類皆哲学者時代の到来

        現代に生きる人々は、あなたを含めて、みな哲学者になりつつあるー。 そんなことを言われたら、驚くだろうか。 だが、これがあながち嘘とは言えない時代に、我々は生きている。 今や科学の進歩で、物質的な貧困は解消されつつある。 そして、物質的な課題が解消されると、我々の思考の矛先はどこへ向かうか。 精神的なものへと向かうのである。 「私という人間は、なぜここに存在するのか。」 「人はいかに生きていくべきか。」 「幸せとは何か。」 このような、昔であれば、暇を持てる限られた人間

        • 逆学力入試推進論

          皆さんは、今まで学力テストによる入学試験を受けたことがあるだろうか。 中学入試、高校入試、大学入試…。 今の日本では、ほとんどの人が1回は経験するイベントのように思われる。 入学試験に向けて必死に勉強し、知識を頭に詰め込んで、テストでその知識を吐き出し、合格点に達する、または上位〇番目に入ると、学校に入学する資格が与えられる。 この学力入試、の意味するところについて、最近ある考えがふと頭によぎった。 それが、「逆学力入試推進論」である。 と、まあ突然言われてもなんのこっ

        意外とできない、子どもと関わる上で大事な接し方3選

          科学の弱さをあえて語る

          現代の日本では、科学に対する妄信というか、「科学=正しい」といったような考えがものすごく強い気がします。 確かに科学は一定の説得力があるものですし、ある程度正しいとは思うのですが、もう少し科学に対して硬直的な態度を緩めて接することが科学の発展につながったり、科学の面白さを拡げるのではないかと感じます。 日本の学校では、科学とはどのような学問か、どのような考え方なのか、を学ぶというよりも、科学的な知識のインプットに終始します。 そしてテストで、その知識が〇か×で判定される。

          科学の弱さをあえて語る

          自分で道を作っていくことが、日本には足りてない

          小室直樹著『日本人のための憲法原論』を読了しました。 全日本人必読書にしてもいいくらい、示唆に富み、そして今の日本人が自分の頭で考えなければいけないことを突き付けられます。 まだ読んでいない方はぜひ。 さて、本題に入りましょう。 上記『日本人のための憲法原論』を読んで、考えたことをつらつらと書いてみます。 現代の日本において、自分自身が日本を作っていくんだ、と考えている人間がどのくらいいるのでしょうか。 (私自身、偉そうなことを言えた立場ではないですが)今の日本はどんな

          自分で道を作っていくことが、日本には足りてない

          ”分からない”=悪 が強すぎる日本

          皆さんは勉強が好きですか? おそらくほとんどの人が嫌い、と答えるような気がします。 普段、子どもとかかわっていても、勉強=つまらないものという方程式が成り立っており、ほとんどの子どもが勉強をしたがりません。 そこで、僕はよく考えます。 なんで勉強が嫌いになってしまうのだろうか?と。 皆さんも数秒、考えてみてください。 どんな理由が思いつきましたかね? まあ、いろいろな理由が挙げられると思いますが、その一つに、わからないこと=悪 というイメージが定着してしまっていることが

          ”分からない”=悪 が強すぎる日本

          "教育"をもっと遊び的に考える

          私は今、子どもの教育に携わっており、子どもたちが幸せに楽しく生きられるように、私にできることは何だろうか?と日々考えている。 その中で、時折頭を悩ませたり、様々な教育の現場で議論の的になる問いがある。 「教育の目的は何か?」 という問いである。 もう少し具体的に言うと、 何のために教育をするのか? 子どもたちに教育によってどうなってもらいたいのか? 教育の先にあるゴールは? などの問いが挙げられる。 私自身、この目的ありきの教育、が今まで当たり前だと思っていた。何か理想

          "教育"をもっと遊び的に考える

          百聞は一見に如かず< 百見は一動に如かず。

          百聞は一見に如かず、という言葉がある。 百回聞くことは、一回見ることに敵わない。聞いただけで分かった気にならず、自分の目で直接見て確かめることが大事だ、という意味のことわざである。 確かに、人の口からうわさで聞くのと、自分の目で見て確かめることは、大きな違いがある。目で直接見て、感じること、学ぶことのほうが多いだろう。 だが、ここでもう一歩深めたい。 百見は、一動に如かず。 どうだろう?私はこれが仕事の上でも、教育でも、本当に大事だな、と思っている。 自分の目で直接確か

          百聞は一見に如かず< 百見は一動に如かず。

          世界を変えたのは、頭の中にある言葉ではなく、外に出した言葉だ。

          自分の考えを、自分の頭の中だけで考えるのではなく、外に出してみよう、そう思って、noteを書き始めた。 なぜそう思ったか。 もったいないと思ったから。 今私達が、読んでいる本、友達が発した言葉、昔から伝わる訓言など、私達が生きていくために、心の糧にしている言葉たちは、過去の人間が自分の頭の外に出した言葉たちなのだ、と気がついた。 世の中に、世界を変えるようなことを考えている人はたくさんいるのではないだろうか。ただ、自分の頭の中で。 別にそれを否定する気はさらさらない。

          世界を変えたのは、頭の中にある言葉ではなく、外に出した言葉だ。