科学の弱さをあえて語る

現代の日本では、科学に対する妄信というか、「科学=正しい」といったような考えがものすごく強い気がします。
確かに科学は一定の説得力があるものですし、ある程度正しいとは思うのですが、もう少し科学に対して硬直的な態度を緩めて接することが科学の発展につながったり、科学の面白さを拡げるのではないかと感じます。

日本の学校では、科学とはどのような学問か、どのような考え方なのか、を学ぶというよりも、科学的な知識のインプットに終始します。
そしてテストで、その知識が〇か×で判定される。
こうなると、科学は正しいものだ、絶対不変のものだ、と勘違いしてしまう土壌が育ってしまいます。

科学というのは、人間が身の回りの現象を観察して、
「これって不思議だな。なんでこうなるのかな。もしかしてこう言った理由からなのでは?」
と仮説を提示し、その正しさを実験やデータなどから導こうとするもの
であると思います。

だから、科学の出発点は仮説であり、失敗や間違いをいとわない姿勢にある。科学の発展も、この姿勢により可能である
ここが非常に重要だと思うのですが、科学は正しいものである。間違ってはいけない。絶対不変のものだ。と考えると、科学の進歩は止まってしまう危険性があります。

よくSNSでは、他人の間違いを強く非難して、正しいものしか語れない、間違ったことを言ったら最後、思いっきり叩かれてしまうといった光景を目にします。
もちろん健全な批判は重要で、批判によって仮説と論理がより矛盾なく、より説得力のあるものになっていく契機になるのですが、SNSでの風潮は、そういった健全な批判とは正反対のもののように感じます。

そもそも、ある人間が仮説を提示し、それを正しいと認定するのも人間ですから、絶対的な正しさ、みたいなことは言えないわけです。
多くの人が「確かに。」と納得できる。仮説の矛盾点、おかしい点を指摘できない状態が、最新の科学で正しいとされていることの正体です。

だから、時代が下って新しいことが判明していくうちに、科学が修正を余儀なくされることは多々あるのです。
天動説が地動説に変わったように。
天体の軌道が円運動から楕円運動だと修正されたように。

今後も、今正しいとされている”科学的な知見”が誤りであった、ということは出てくるでしょう。
科学とは、そのように絶えず更新されていくもの、一応今のところ正しいとされているもの、という意識で接すること。
だからこそ疑問や仮説を大切にし、探求の芽をつぶさない、温かい世の中であることが、人類や科学の発展につながっていくのではないでしょうか。

相手の間違いや矛盾を、強く非難するのではなく、一回受け止めて問い直し、一緒に考える。
「なるほど、そう考えたんですね。ここはこういう風に考えられると思うのですが、どう思いますか?」と。
こういったやり取りが当たり前になる世の中であったらいいな、と思います。


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