「習っていない」に強烈な違和感を感じる話

子どもたちが勉強や宿題をやっている姿を眺めていると、よく目にする光景がある。
ある問題に手が止まり、「これ習ってない!」と言って、問題集やワークを閉じてしまうのである。
お子さんがいる方や教育に携わっている方なら、日常茶飯事の光景ではないだろうか。

個人的に、この場面に出くわすと、強烈な違和感に襲われる。
これでいいのか…?という感情に苛まれる。

この違和感について、今日は言語化を試みたい。


私はなぜ、この場面に強烈な違和感を感じるのか?

その源泉は、「習っていないこと=やらない・できない」になってしまっているところにあるのではないか。

”習っていない”ということは、やらなくていい理由にはならない。
習っていなくても、今まで学んだことや教科書の情報を活用し、自分の頭で考えて、問題を解いてみる、という挑戦がむしろ大切でないか。
そう思うのであるが、子どもたちは十中八九、習っていない=やらない、になってしまうのである。

この「習っていない=やらない」という図式は、勉強や学びの型が誤った形で固定化されていることを示しているのではないだろうか。
つまり、勉強や学びに対するイメージが

知っている人(教員や親)から情報・知識を与えられる・教えられる

与えられたものを覚える・暗記する・理解する

テストや宿題でアウトプットする

という形で固定化してしまっているのである。
こうなってしまうと、能動的に学ぶこと・考えることはどんどん少なくなっていき、自分で学び考える力が衰えていってしまう。

学びとは、上記のようなものではなく、むしろ

自分の中での問いや興味関心がある(何だこれ!知りたい!理解したい!)

今までの経験や身の回りにある情報で仮説を立てる(こうなんじゃない?)

実験してみる・試してみる

気づく・学びを得る(こうなってるのか!)


という風に、能動的に獲得していくものであるはずである。
そんな能動的な学びを、子どもたちから奪っている現状を何とかしなければならない。


では、どのようにして、習っていないことにも積極的に自分から学んでいってもらうか。

まず、学びというのは、教えられるのが当たり前ではなく、自ら進んで取りにいくものだ、ということを伝えることである。
伝え方は、様々にある。
子どもたちに、「教えられていないことでもどんどん勉強していっていいんだよ、教科書や本は自分で学ぶためにあるんだよ」と直接伝える方法もある。
自分自身の興味あるテーマを、本などで調べ、それを子どもに共有し、自ら学ぶ、ということを実践を通して、自分の背中を見せて伝える方法もある。

それと同時に、できる限り教えることをやめること、大人主体の”教える”ことから、子ども主体の”学び”、”気づき”に移行していくことも重要である。
そして、”教える”ことから”学ぶ”ことへ移行するために、大人は子どもに”問い”を重ねていく必要がある。

「これってどうなると思う?」
「なんでそう思ったの?」
「ここはどうなってるかな?」

このように問いかけ、生徒自身が考えを自分の頭で紡ぎだしていくこと。それを習慣化することが、能動的な学びに結びついていくのではないだろうか。

もちろん、ただ問うだけで、その後に、結局一方的な教授に戻ってしまっては意味がない。
問う、子どもたちの意見や考えを受け止める、驚く、深掘る、着眼点を示す。
この繰り返しによって、子どもたち自身が教えられることなしに学んでいく環境や姿勢を作ることを、推奨したい。

人は誰でも、小さい頃は主体的で積極的なものである。
自分の気になるものは、口に入れたり、引っ張ってみたり、たたいてみたり、自分から動いて学ぶものである。
それが、学校に入り、一斉教授型の授業に慣れきってしまうことで、自ら学んでいく力を失っていく。
その典型的な象徴が、「習っていない」と言って、学ぶことをやめてしまう子どもの姿ではないだろうか。

変化の激しいこの時代、誰かから教わるのを待っている時間はない。
自分の気になることは、自分のペースで自分で学ぶ。
そんな能動的で主体的に学んでいける人を一人でも多く増やしたいものである。


※自ら学んでいけなくなってしまう理由や、どうすれば主体的にかつ能動的に学んでいけるかについての考えがあれば、ぜひコメントまで!

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