<8月と空>楽しくて大好きな、切ない季節
日本の四季の中で夏が一番好きだ。
むわんとした熱気にカンカン照りの太陽、けたたましく鳴くせみの声。
外に一面中の夏が広がっていると考えただけで、いてもたってもいられなくなる。仕事をそっちのけに夏を浴びに繰り出してしまう。
でも、なぜ?
好きなことや好きな人に自分の感情の理由を求める行為は、いつだって後付けでしかない。
そういう意味で、現在の自分はいつでも過去の自分よりも上の立場にいるかのようだ。だって現在の自分は、過去の自分の感情や行いをいくらでも解釈・修飾・加工・編集ができるのだから。
私が夏を好きな理由もそんなものかもしれない。
夏のにおいには、過去の夏の思い出を次々と記憶の彼方から呼び起こす何かがある。夏休みの自由課題、ラジオ体操、田舎への帰省、プールに花火、部活に夏合宿、夏祭り・・・
記憶の中の夏は、いつでも、むわんとして、カンカンで、けたたましくて、そこにいる自分はいつも、明るく、楽しく、わくわく、何かをめいっぱい、思い切り、やっている。
でもなぜだろう。そんな一方でなぜかいつも、切なさのかけらを脇にたずさえていた気がする。
それはもしかしたら、夏の終わりがすぐやってくることを知っていたからなのかもしれないし、もしかしたら、何か全く違う理由からもしれない。
今日、私が感じた切なさは、そんな過去の記憶たちに対してのものだった。
だって、考えてもみてほしい。
一度過ぎ去った時間は、もう二度と戻ってこないのだということを。
楽しかった思い出、そこで一緒に時間を過ごした人たち。それは、もう過ぎ去ってしまった、終わった事であって、これから先私が生きていく中で二度と繰り返されることのない時間だ。
思い出す過去の記憶の層が厚みを増せば増すほど、その、動かしがたい現実が重くのしかかってきて、それが、「終わり」という言葉にどんどん凝縮されていく。
人生は、「終わり」の連続。
私たちは毎日、そうした「終わり」を着実に重ねていっている。
日本の夏の空気があんなに重く、むわんと暑苦しいのは、夏自身がそういうメッセージを、自らの空気の中にめいっぱい押し込めているからなのかもしれない。
お盆だからだろうか、そんな考えに不思議と説得力を感じた夏の夜だった。
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