そらとあした

そらとことばを大切に日々過ごしているそのへんの人。

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最近の記事

<12月と空>空は人の心をうつす鏡

「とても良いことがあった日にふと上を見上げると真っ青な快晴だった」 「たくさん泣きはらした1日の終わりに感動的な夕焼けを目にした」 ・・・そんな経験は誰しもにあるのではないかと思う。 それはただの偶然なのかもしれないし、確率論以上の何ものでもないのかもしれない。 いつもの如く、空は真実を何も語ってくれないし、すべてはそれを見る私たちの一方的な解釈に偏っている。 でも、1つ確かなこと。 それは、2つの紛れもない「事実」――その日何か心に気持ちのさざ波を立てるような出

    • <11月と空>自分の時間に浸るということ

      いつからか、何を考えるともなく時間に浸る、そんな過ごし方が苦手になった。 未知の将来への不安、自分の存在意義への不信、幸せって一体何なのだろう、という答えのない問いへの思索。 そんなものたちに囲まれ、正体の見えない不安に怯えながら、これでもかというくらい自分自身を見つめていた日々。 思えばそれは、「若さ」の一片だったのかもしれない。 わずかに開いた窓の隙間からバンコクの空のかけらを見上げながら、理路整然とした考え事をしている自分、さざ波一つ立たない自身の心を発見して、

      • <8月と空>楽しくて大好きな、切ない季節

        日本の四季の中で夏が一番好きだ。 むわんとした熱気にカンカン照りの太陽、けたたましく鳴くせみの声。 外に一面中の夏が広がっていると考えただけで、いてもたってもいられなくなる。仕事をそっちのけに夏を浴びに繰り出してしまう。 でも、なぜ? 好きなことや好きな人に自分の感情の理由を求める行為は、いつだって後付けでしかない。 そういう意味で、現在の自分はいつでも過去の自分よりも上の立場にいるかのようだ。だって現在の自分は、過去の自分の感情や行いをいくらでも解釈・修飾・加工・

        • <7月と空>何かがおわる日

          「あの人は空になったんだよ。」 子どもの頃、大人にそんな言葉を投げかけられたことを、ふと思い出す。 なぜ、そこで擬人的に使われるのは、空なのだろう。 こんなにも空が好きなのに、そんなありふれた言葉を、これまで一度たりともきちんと考えたことがなかったことに、ふと気づく。 楽しいこと、楽しい時間、大切な人たち、自分を取り囲む日常・・・ もしも人生がそんなことの連続だとしたら、その連続がいつまでもずっと続くような、沈んだ太陽がまた明日ものぼるような、そんな思いが、「空」と

        <12月と空>空は人の心をうつす鏡

          <6月と空>日常から非日常が消えるとき

          日々過ぎゆく日常に息苦しさを感じて空を見上げる。最近そんなシーンが増えた気がする。 落とし穴だらけの道 明日の身分すら保障されない仕事 次また会える時が来るのかもわからない刹那的な出会い ―――不安定・不便・不衛生・リスク・スリル・使命感・覚悟・本気・・・ ほんの少し前までは、そんなものばかりに囲まれて日々を過ごしていたはずだった。 そうした類のものがひとつ残らず消え去った平穏な世界を、日常、というのだろうか。 人生に華を添えてくれる程度だったはずの空が、今はそ

          <6月と空>日常から非日常が消えるとき

          <6月と空>時間を巻き戻せたら

          過去をふり返るのがきらいだ。 髪の毛が、床に落ちた瞬間にそれまでのからだの一部から突然何か不潔な存在に変わってしまうように、過去も、私にとっては何か、もう触れるべきでない、忌まわしい存在に思えるからだ。 ―――でも、空だけはそんな私の中の頑ななルールをいとも簡単に無視してくれる。 2年前の今頃。その日、ミャンマーで見た空は、不気味なくらいに真っ赤で、そして、息が止まるほどに、きれいだった。 夕方、空の様子がいつもと違うことに気づいて、私は大急ぎでその時住んでいたコンド

          <6月と空>時間を巻き戻せたら

          <6月と空>遥か彼方にいるのに近くに感じるのはなぜ

          今日の空は目を見張るくらい複層的だった。 雲の上にまたちがう雲が重なって、その上にまた別の雲が存在している。そしてそれぞれが思うがままに日の光を浴びて、そして好きなように移動していく。 「空ってこんなに高かったのか。」 決して手が届くことのない存在。 なぜだかわからないけれど、それを感じれば感じるほど、自分のすぐそばにその存在を感じることがある。 いくつもの国境を越えた先にある場所。スクリーンの中の実在しない世界。知らない誰かのあたまの中。 物理的な距離 と 気持

          <6月と空>遥か彼方にいるのに近くに感じるのはなぜ

          <5月と空>何も、起こらなかった。

          雲ひとつない真っ青な空。 五月晴れのもとで、燃えさかるほどにまぶしい太陽だけが、大きくてどこまでも青い空を優雅に独り占めしていた。 それはまるで大河ドラマの主役のような圧倒的な存在感だった。 そんな太陽と、真っ青な空を見上げながら、きっと今日はものすごく感動的なサンセットが待ち構えているのだろうという期待に胸を膨らませて、私はじっと、日が暮れるのを待った。 太陽は、ゆっくり、ゆっくりと、待っているこちらになどおかまいなく、空をめいっぱい堪能して、そして、沈んだ。 ―

          <5月と空>何も、起こらなかった。

          <5月と空>おしとやかで気まぐれなものは好きですか

          静けさだけが引き立つ。 決して自己主張しない、控えめな雨音。おしとやか、なんていう言葉がこんなにしっくりくる存在もなかなかないな、と、そう思わせるような雨の降り方が、日本の雨には多い気がする。 そうしていつのまにか、心が澄み渡る。 雨にも国民性なんていうものはあるのだろうか。・・・そう書きながら、国民性なんていう社会的な言葉は、雨にはまったく似つかわしくないと思った。 でも、雨が降るたびに感じるどこか懐かしい感じは、歳月が経っても、はたまた時代が変わっても変わらない「

          <5月と空>おしとやかで気まぐれなものは好きですか

          <5月と空>そんなときは土手に行ってみたら

          朝から降り出した雨はほどなく止んだけど、雨のあとの冴えない空模様を、家の窓ごしにずっと眺めていた。今日も、特にすることがない。 どんよりとした味気ない空なんてあんまり好きでない。なのにそんな空を見ているとまるで自分の姿を見ているみたいで、ため息しかでない。 そうしていたら今日もいつのまにか終わってしまいそうで、ふとした焦燥感にかられた私は、空を見ることを言い訳にして、外に出ることにした。 目的地なんて、ない。何も考えずにぶらぶらしているうちに、川の土手に自然と足が向かう

          <5月と空>そんなときは土手に行ってみたら