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未来少年コナン 観劇記 その1~脚本の感想&考察編~

こんにちは。見に来ていただいてありがとうございます。よっちです。


今回は、東京芸術劇場プレイハウスにて2024年5月28日~2024年6月30日の期間で上演されていた舞台「未来少年コナン」についての記事になります。

私は本公演の初回(5/28 夜)、2回目(5/29 昼)、東京千秋楽(6/16 昼)、大阪3Days(6/29昼を除く)の計6公演を観劇しました。内容が同じとはいえ、毎回細かな違いがあるのが演劇、ひいては全ての舞台芸術の特徴であり醍醐味。ですので今回の記事が上記6公演の内容に基づいた限定的なものであるという点はまずご承知おきください。

また当記事の主旨上、やむなく多くのネタバレを含んでいるという点も併せてご理解ください。(⇒書いてるうちに全公演終わったので全力でネタバレします)

さらに今回、めちゃくちゃ長い、です。
場所によっては、観劇された方にとってはわざわざ読むまでもない箇所もありますので、その辺りは流し読みで全然構いません!(笑)


本公演の概要については公式サイト( https://horipro-stage.jp/stage/fbconan2024/ )冒頭部分をご参照いただくのが一番かと思われますが、かの有名な宮崎駿さんが1978年に初めて監督したアニメーションシリーズ「未来少年コナン」のインバル・ピントとダビット・マンブッフによる舞台化作品とのことで、制作が発表された段階から私は推しがヒロイン役として出演するという事実を抜きにしてもこの演目に非常に高い関心を抱きましたし、同じようなかげさぽも多かったのではないでしょうか。


とはいえ、推しと同じ2001年生まれの私は原作アニメを見たことがなく、「コナンと言えば名探偵の方」という感覚で生きており、うっすらと同じ「コナン」という名を含む別のアニメがあることは知っている、という程度でした。
なので今回、推しの出演が決まり観劇を心に誓ってから、すぐさまAmazon Prime でいっき見しました。こうやって「見たい」と思った遠い過去の作品にすぐありつけたときはいつも、便利な時代に生を受けたもんやなあ~と思います。

アニメシリーズを見ていくと、この世界感をどうやって舞台上で表現するのかというワクワクが加速するばかりでした。広大な自然や大規模な人工物、そしてそれらを旅する登場人物たちがどのように表現されるのか。インバル・ピントは身体表現の可能性を追求されている方ということで、推しはそんな新天地で何を吸収し、カンパニーの方々と共にどんな景色を見せてくれるのだろう。そんな期待に胸を膨らませながら、5/28、晴れ女の推しらしからぬ大雨の中、大阪から東京へと飛びました✈

曇天の東京芸術劇場。飛行機の遅れで約20分前に到着。ひとまず安心。


中に入ると、ホワイエではグッズ販売がありました。そこまで並んでいなかったので、トートバック&パンフレット、B6キャラクターノート(コナン)をサッと購入して入場。

後になって思ったことではありますが、初回という特別感のためか、心なしか会場内には多様な高揚感が漂っていたように思います。声や空気がわしゃわしゃしてる感じ。
かくいう僕もそわそわ、わくわく、どきどき、などと色々感情が動きました。なんてったって推しの(ほぼ)初舞台ですから。

さて、ここからはまず脚本全体について、演出にも触れながら考察してみたいと思います。キャストさんそれぞれの印象については次回以降にします。



唐突で壮大な導入ですが、生きとし生けるものは全てが自らの営みに資源を必要とします。資源には限りがあるので、生物同士がそれらを巡って争いあってしまうということは自然の摂理であるとみることだって出来るのかもしれません。
宮崎駿監督の作品には、そういった人間と動植物の間にある関係性を見据えて、共生の観点から再考させられるようなものが数多くあります。

未来少年コナンという作品も紛れもなくそのうちの1つであり、【人間の過ぎた欲望に起因する自然環境の人為的な破壊】と、【防げない自然的な災害】が存在する世界で、それらから再生しようとする生き物たちの健気な生命力と、すべての生き物が共生できる未来の熟考。といったような、彼が重視しているとみられるテーマを随所から感じることができます。

ここでストーリーを事細かに書くような真似はもちろんしませんが、今作は割と冒頭に上記のような主題がそれとなく示されるので、考察も交えながらざっくり時系列順に振り返ります。なお、冒頭のコンテンポラリーダンスのようなものについては次回、各シーンについての感想とまとめて書きます。


物語本編は、コナンが「ハナジロ」と呼んでいるサメを討ち取り、おじいに自慢するシーンから始まります。「この調子でどんどん仕留めて、二度と生け簀を荒らせないようにしてやる!」と息を巻くコナン。

出典: https://x.com/fbconanstage/status/1797151827961823726

それを受けて、最初はコナンがハナジロを仕留めたことを褒めていたおじいでしたが、「それはいかん」とぽつり。

自分たち人間が食料を求めて生け簀を守るように、サメたちも生きようとしたのだよ。だからそう簡単に答えを出していい問題じゃないんだ。と少年に説きます。

それを聞いてもコナンは「おじいの仲間も殺されたんでしょ?」だとか、「(難しいのはいやだ。)簡単がいいよ」と、まだ理解出来ない様子。

そこにラナが漂着し、モンスリーをはじめとした追手がおじいを撃ち、瀕死の状態でおじいがコナンに語りかける、という流れは原作に沿った形で描かれます。ここでおじいの口から、大地殻変動が起き、行き場を失ってロケットで宇宙に逃げたおじい一行は墜落したのこされ島でどうやって生きのび、なぜ生命を繋いでいく選択が出来たのかが告げられます。(ラナの独唱を盛大に端折りましたがそれも次回!)


なにもかも朽ちてしまい、希望を失いかけていたところに、水が湧き、植物が育った。世界が我々に「生きろ」と訴えかけてきた。そこにコナンが生まれた。お前は希望そのものだった。

仲間を見つけて、仲間のために生きろ。


こういったこと伝えきったのち、おじいは遂に息を引き取ります。(※1)

その後すぐ、ラナが飛行艇で連れ去られたことに気づき、有名な岩ぶっ壊しシーンを経て、太陽の子コナンの旅が始まります。ここでは、悲しみに踏みつぶされたコナンが希望を手繰りながら立ち、旅へ出る姿がユニークな音楽・演出によって描かれます。

ここの演出だけでも面白いところは沢山あるのですが、様々な仕掛けと表現によって空間が凄く広がった感覚になり、コナンが大海原を進む姿が活き活きと伝わってきて、楽しかったです。あと途中のあの魚ポイって投げるやつも、見るたびにハラハラしましたが6回中6回ちゃんとキャッチ出来ていたのが地味にすごいと思いました(笑)


一度滅びかけてから再生しつつある世界が、再び同じ過ちを繰り返そうとしている中で、コナンは健やかな未来を希求する存在として、我々を旅へと連れていってくれます。

若くして旅立ち、未来を背負う純真無垢なコナンは、常人離れした身のこなしで攫われたラナを取り返し、守ろうと努めます。コナンというキャラクターは一見本能のまま(?)目先の目的に対して一目散に動いているように見えますし、「考えるよりも先に無鉄砲に飛び出して、なぜかうまいことやっちゃうアニメ的な超人」というイメージは僕にも当初ありました。まあ元々アニメですからそう思うのも無理ないですよね(笑)

ですが、今回の舞台を何度か見ているうちにその認識に変化がありました。むしろ今となっては、一見そんな風に見えるコナンだけれども、実は彼なりに凄く敏感に世界を感じ取っていて、かつ常に目の前の人のこともちゃんと見ている子なんだと思います。

おそらくこう思うようになった最初のきっかけは、「舞台『未来少年コナン』バックステージトーク #1」でコナン役の加藤清史郎くんが語っていた彼にとってのコナン像なのだと思います。初日の1週間ほど前に公開されてすぐに見たので、その時は「ふーむ、確かにそうかもね~」くらいで聞き流していましたが、舞台を見てみれば「なるほど確かに、ただのスーパーパワフルわんぱくボーイではないな」と思いました。

6回観劇するなかで色々と考えましたが、私たちがコナンという子どもの中に成熟した一面を感じる理由は、おじいの言葉の中にあるのだと思いました。コナンはおじいに学んだことを心にとめ、真剣に向き合っているのだというのが、今の僕の見解です。

理由としては、バックステージトークでも清史郎くん(さん…?)たちが話していたように、彼は凄く他人への気遣いに長けているという点が挙げられます。おじいが言った通り、コナンは常に仲間のことを想い、仲間ために己の命を燃やしています。仲間のためだったら、自分にとって危険な選択だって厭わない。そういった心意気は彼の中で終始一貫していて、ラナの親族であるシャン・メイザルに向けた「大丈夫だよ」という言葉から、砂漠のシーンでラナの手を引く姿勢/視線/意識の向き まで、彼の言動や行動は仲間のためを思ってのものばかりです。


出典: https://x.com/fbconanstage/status/1797151827961823726
出典: https://x.com/fbconanstage/status/1797151827961823726

そしてさらに、コナンは悪役サイドの人間も誰一人として見捨てません。ダイスに関しては紙一重でしたが(笑)、「僕もお前も同じいのちなんだ!」という終盤のレプカへのセリフにもあるように、コナンは彼なりにおじいが言った「簡単じゃないこと」に向き合っています。善悪問わず全員に手を差し伸べたのは、彼なりの答えだったではないか、と僕は思っています。


また、こうした共生への願いはその他の場面やキャラクターからも感じ取ることができます。

対比として描かれるハイハーバー(の住民)とインダストリア(の上級市民)はその代表例でしょう。

ハイハーバーの人々は、ラオ博士の指南のもとで自給自足の生活を築き、いさかいがあれば膝を付き合わせて話し合ってきたといいます。一方、インダストリアでは上級市民と下級市民との間に明確な格差があり、上級市民は裕福な暮らしをしており、下級市民には劣悪な生活を強いています。

そんな中でも、インダストリアの地下に住む下級市民は食器を突き合わせて食べ物を分け合う、という姿がダンスによって表現されていました。私的には、上下で器を並べて上から下へと流していくさまは独占と不平等な分配(搾取)を表現しているように見え、横並びで食器を突き合わせる動きは地下市民間での平等な分配を表現しているように見えました。

いずれにしろ、ルーケをはじめとした牢屋にいる人間は不平等の中で平等を貫き、すべての人が平等に生きることができる世界を望んでいました。彼らは危険因子として投獄され、レプカによって額に焼き印を押されていますが、ルーケはそれを「我々の誇りのしるし」であると言い表しました。アニメにも同様のセリフがありましたが、これがまた本当に良くて良くて良すぎました。ルーケの口から生きた言葉として会場内に響いたとき、シンプルに「かっけ~~!しびれる~~!!」って思いましたし、初日に初めて聞いたときは本当にグッと涙腺に来ました。


…さて、お気づきの通り途中から時系列を無視して語ってしまっており、1幕最後の水中のシーンをはじめいくつもの重要なシーンを飛ばしておりますが、各シーンについての感想はまた別枠で書くとして、ひとまず最後に本作のラストシーンについても私なりに考察をしてみたいと思います。もう少しお付き合いください。


舞台版コナンでは、レプカが再起動させる超磁力兵器ギガントを表す装置として、なんと全面鏡張りのどデカい三角柱2つが現れます。さすがに初日はすぐにはピンとこず、少し時間が経ってから「あ、これもしかしてギガント!?はにゃ?!」となりました。清史郎くんが先述のバックステージトークで言っていた「あれがこれなの?!」は主にこれの事を指しているのだろうとすぐにわかりました(笑)

私としては、ギガントをあそこまで抽象化してそれと分からせるアイデアも、鑑賞者が様々な捉え方ができるように遊びを持たせる(余白を残す)狙いも素晴らしいと思いました。光の反射によって、機体の規模の大きさを体感することができるうえに、コナンとレプカが最後に落ちていく際には幕?に反射した光が映り、身体が見えなくなると同時に人の影が落下していく、という演出が同時に叶っていて、シンプルにすげえ演出効果だなと思いました。(※2)


コナンは自身がギガントから落下しそうになりながらもレプカに手を差し伸べますが、結果的にはレプカ➡コナンの順でギガントから落下(?)していき、そのシーンは終わります。そのあとは、ラナは下手、コナンは上手から出てきて抱擁➡大団円という流れで物語は終結するのですが、ここはもしかすると、今回の脚本の中では特に意見が分かれるところなのかもしれません。というのも、直前のシーンでレプカもコナンもギガントから同じように落下したのに、コナンのみが生還し、レプカの安否は不詳のままハッピーエンドを迎えているように見えるからです。


6/11の読売新聞(夕刊)の劇評にも、この唐突さを指摘しているとみられる一文はありました。私自身も初回は若干当惑し、その後も「レプカはどうなったの?」という違和感はしばらく残りました。ただ、5/28~6/30までの公演期間で色々と考えた結果、もしかするとあの結末にもきちんと思惑があり、解釈の余地が設けられているのではないか、という結論に至りました。


その解釈は私が思いつく限りだとだいたい3つほど挙げられます。

まず1つ目は、少し現実的でネガティブな解釈です。どれだけ悪を潰し、またその芽を摘もうとしても、それらを完全にこの世からなくすことは出来ない。言い換えると、目の前の世界がどれだけ明るく見えても、同様の悪は広い地球上のどこかで必ず息を潜めているもので、危険因子(分子)という不安要素が完全に消えることはない。要するにこれは【レプカ的思想の不滅説】ですね。ただ、落っこちたレプカが今後も変わらず悪いヤツで在り続けると決めつけることは出来ません。失墜した後に誰かの暖かい心に救われることもあるかもしれませんし、最後にコナンが差し伸べた手が彼の心に引っかかって、変わってくれるかもしれません。


次に2つ目は単純に、悪のみが淘汰されていく未来を願っての演出であるという解釈。つまりいうなれば【レプカ死亡説】ですね。大団円では皆が楽しげに、濁りのない幸せを噛み締めてる感じだったので、このように見ることも出来そうです。ただこれだと、悪者には未来が与えられないという事になってしまいますね。


最後に、2つ目を否定する形で私が提唱したいのが、3つ目の【共生の希求】説です。善良な人間のみに未来があるべきで、自分たちにとっての悪はもれなく、否応なしに滅びるべきであるという考えは、おじいが否定した「簡単な答え」です。片方の正義がもう片方の滅却を肯定した場合、それはやはり歴史の繰り返しにすぎず、レプカが指摘したような過ちの連鎖にほかならない。だから直接的にレプカの死は描かれず、コナンには手を取らせた。もっとも、“よく考えている”とみられるコナンだって、ここまで難しく考えてはいないと思います。彼だってもともとは難しい答えを嫌うこどもでしたから(笑)「僕もお前も、同じいのちなんだ!」という最後のセリフが全てでしょう。

1つ目の説と違う点は、レプカ(的存在)が淘汰されることを望んでいないことにあります。「話し合え!!」というジムシーのセリフが、その裏付けとして私の中に響き続けています。


出典: https://x.com/fbconanstage/status/1797151827961823726

ラオ博士やおじいのような未来の人々を想う気持ちと、いのちの共生を学び、願い、志す次世代の人たちの想いが、少年コナンと少女ラナがきっかけとなって結びつく物語。彼らの勇姿を見届けた私たちが、世界を「虚栄の庭」にしないためにできることは、何でしょうか。


この作品を現実世界と照らし合わせてみたとき、レプカの言い分がある意味的を射ているように思えたのは私だけではないかと思います。「人は何故争うのか?」という大きな問いだてへの答えのひとつとして、彼は「どちらかが他方を支配し得るほどの圧倒的な力を持たないから、双方が相手を制する夢を見てしまうのだ」という核心をついた主張をしました。

世界の歴史と現在を踏まえて聞くと、私は彼の言葉に説得力を感じざるを得ませんでした。あえて列挙するまでもありませんが、今でも世界のあらゆる場所で争いが起きていますし、「抑止力」と称して各国が核兵器を保持しています。中には武力を誇示する国さえあります。

また、そういった人間同士の争いや欲望によって自然環境が破壊され、他の生物の居場所を奪うことも少なくありません。


コナン「それは悪い事だ!」


…確かにそうです。ただ私は、だからといってここで能天気に綺麗事を書くほど無自覚な人間ではないです。


今これを書いている日の朝の話ですが、起床して眠い目を擦りながら洗面所に行ったら、網戸になってる窓にばかくそでけえゴキブリが居たんです。(Wordで下書きしてたら赤波線で校正されかけました。違わねえよ?ハッピーターンの2倍くらいあったんだからな)

幸い、よく見てみるとGは網戸の向こう側、つまり外にいたので、けたたましい叫び声が閑静な住宅街にこだましただけで済んだのですが(無様)、やはりきちんと殺意はわきました。安全だけど、ほったらかすといつ入ってくるかわかんないじゃないですか。安寧な生活を脅かす存在は、事前に駆逐しておくにこしたことないじゃないですか。まあ今朝はそのあと見失っちゃったので放置して家を出ましたが…。


こんな風に、宮崎駿監督の映像作品やこの舞台を見たからといって、自分の生活に大きな変化はありません。いつもどおり飯を食って糞をする。肉や魚はうまちゃーんだし、車という鉄の塊で移動するし、Gが出たら殺虫剤が欲しくなる。嫌いなやつには心の中で中指を立てて、本人が居ない別の場で愚痴をこぼす。

こういう日常の営みや考え方、生き方を大きく変える必要はないと思いますし、心身ともに健康であり続けるためにはどれも必要な事ばかりです。

でも、それでもその営み中に、わずかにでも慈しみを持つことができたら。食料になるいのち、踏まれたり愛でられたりする植生、うっとうしい虫、嫌いな人間、すべてに対して慈しみをもって、少しでもいいから今より対象物を慮ることができるようになれば、矛盾に立ち向かうことができる。共生を考える人として生きることができる。


私はこう思いました。だから、観劇後は「そんな風になれりゃいいな~」ぐらいに思いながら生きています。


大団円のシーンのセット。東京公演では終演後、ここだけ撮影OKでした。


さてさてさてさて!!めちゃくちゃ長くなっちゃいましたね!!


全部読んだ人、いない説を提唱します。誰かこの説を否定してください・・・

以上が、脚本(または演出)に対するざっくりとした感想と私なりの考察です!


各シーンの感想だったり、キャストさんそれぞれに持った感想は、次のページで書こうかなと、思っています。


影ちゃんに対する感想ほとんど書けてないから、なるはやで書きます。まっててくれ~


(※1)個人的な感覚としては、おじいにはストーリーテラーとしての役割があるものの、やはりどうしても瀕死にしてはセリフがやや長く、単調に感じさせられました(特に1,2公演目)

アニメも同等な長さだったのは確かですが、演劇への翻案の場合は時間の経過にあわせて語りの調子が減衰していけばあるいは説得力が増したのかも、と思いました。ただそうすると必然的に更に尺をくうことになるので、あれくらいがベストなのかも…とも思いました。

➡東京千秋楽、そして大阪3Daysではそこまで気にならなかったので、回を重ねるごとにおじいが体に染みついて説得力が増したのかもしれません。いやしらんけど。(←関西人の秘技)


(※2) ただ、その三角柱の回転に伴って暗い客席に強い光が反射して来まして、それになかなか慣れることができず、見たいのに見れない、という歯痒さと辛さは時折感じました。どうやらそもそも事前にホリプロ公式HPによる周知があったようですし、私自身も東京千秋楽の時にはホワイエ内に注意喚起の張り紙がされているのをこの目で確認しましたが、個人的にはちょっと苦手だったかもな~というのが本音です。席によってはマシな日もありましたけどね…!


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