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商品としての自分。

私達は小さなころから色々な競争に参加している。
徒競走、小テスト、受験、恋愛、スポーツ等々
その競争は勝者がいて敗者がいる。

その中で勝利を掴み続ける人は一握りである。
大半は敗者で負けを知らない人などいないのかもしれない。

数値化出来るものは単純な指標に区分けさせれて
スポーツであれば点数を多く取った方が勝ち、学業では上位数パーセントしか入れない学校に入った奴らが優れていて、会社では売上を多く上げた人が褒め称えられ、恋愛では付き合った人数、行為の回数、異性の容姿などで優劣を付けている。

その単純な数字の中で私達は商品として数値化されている。
テストの点数、卒業校の倍率、年収、身長の高さ、所属している会社の売上、異性との関係の多さ、持っている車の金額等々
見える数字でその人の価値が決まり、それを見て高い低いを人は決めるのだ。

例えば、婚活市場であれば男性は会社と年収にフォーカスがあたり、女性であれば容姿と年齢を基準に序列が決まる。

学校のヒエラルキーは容姿や頭脳、運動神経の総合力で決まる。

その中で上位になればなるほど商品として扱われるし、評価を得られない人は価値のないものとして空気として扱われるか、一部いじめの対象として消費される。

果たしてその社会は幸せなのだろうか。

評価を得られないからと言ってその人の存在している価値がなくなってしまっていいのだろうか。

評価の高い人は果たして万能で完璧な存在なのだろうか。

頑張りはすべて水の泡なのだろうか。

容姿や頭脳、身体能力、若さは娯楽や欲望に消費されても良いのだろうか。

かと言って一人間が考えても社会の思想を変えることはできない。

なので自分としては商品としての自分を社会との一つの繋がり方として納得をして、自分としては人を人として愛していきたい。
人はすべて完璧にできないし大好きな部分もあればその大枠の中で苦手な考えや思想もあると思う。
それでもその人が自分を商品ではなく一人間として認めてくれているのであればその人を愛する事が出来るのでないのだろうか。

そんなコミュニティを作れるようになりたい。(何の宣言?)

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