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「喜び」の中で生きるとき、人は生かされて生きるようになる

前回の「望んでする」が幸せの分岐点、という記事で、次のようなことを書いた。

どうすれば新しい社会を生みだしていくことができるのか。

その方法のひとつとして「生かされているということに気づく」ということが思いつく。

多くの人が、自分は生かされていると気づくことができたとき、社会の構造が一変することだろう。

「やらされる」と「生かされている」というこの2つは、どちらも受け身の言葉だけれど、その意味は大きく異なっている。

生かされているからこそ、しなければならないことがある。

このことに気づくとき、生き方が180度変わっていくのではないかと思う。

今回は、このことについて書いていこうと思う。

上の文にある「生かされているということに気づく」ということはどういったことなのか。

これを理解するには、「我々はシステムによって生かされている」ということを認識しなければならない。

そして、「我々はシステムによって生かされている」ということに気づくことができれば、生き方を変えるようになることだろう。

なぜかといえば、生き方とは「採用する生き方のシステム」のことを指すからだ。

だから、生き方のシステムがいくつもあると知ることができれば、その中から自分が望むものを選択できるようになる。

我々は、選択できる立場にある。

そこで、最初に、我々はどういったシステムによって生かされているのかを見ていきたいと思う。

まず身近なところでいうならば、我々、日本人は「資本主義という経済システムによって生かされている」といえるだろう。

我々の生活の中心にはお金があり、このお金という価値基準に従って多くの人が生きているし、お金というシステムによって「生かされている」といってもいいだろう。

これがシステムによって生かされているということになる。

つまり、我々は資本主義というシステムの中で生かされている。

我々は何をするにしてもお費用対効果を考えてしまうものであり、お金が意思決定の尺度となることが多い。

我々は、無意識下で、こういったお金の解釈を使うことが習慣化されているため、お金に生かされているということもできるだろう。

前回の記事で書いた「やらされている」と思って行動することも、費用対効果を考えての行為と考えることができる。

「やらされている」と思いながらも、それを続けているということは、そこに何かしらの利益を得られるからであり、そういった利益がなかったなら、「やらされている」ということはしなくなるはず。

つまり、「やらされている」と感じながらもそれをしなければならないのは、それが「システムによって生かされている」ということなのだ。

お金がないと生きられないというのが、現在の我々が採用している(させられている)システムであり、そのシステムの中で我々は生かされている、といっていいだろう。

しかし、こういった社会のシステムは国ごとに異なるものだし、システムの違う国で暮らせば、当然、違ったシステムの中で生きるようになっていく。

たとえば、東南アジアの山岳民族の中で生きるとなれば、その民族の中での生活システムを使って生きるようになるだろう。

そういった人たちの暮らしには、我々とは異なる価値観が存在するため、そういった人たちの中で暮らすことになれば、考え方を変えて生きていかなければならなくなる。

こういったことが、システムを変えれば生き方が変わるということになる。

いずれにせよ、生活のシステムは場所によって、あるいは国によって変わるものであり、地域や国によって変化するシステムとは、単に価値観の違いでしかない。

つまり、場所や国によって変わるシステムには普遍性がないのだ。

しかし、もう少し高い視点を持ってみたならば「生かされている」の意味も変化していく。

では、抽象度を少し上げて地域ごとの差のない視点で見たならば、我々はどういったシステムによって生かされているといえるのか。

それは、我々が誰もが共通して持っている「生命としてのシステム」によって生かされているといってもいいだろう。

この「生命としてのシステム」の視点で、我々人類のあり方を見ていったなら、地域性といった違いを超えて、人としてどう生きればいいかという普遍的なあり方が見えてくる。

資本主義の日本で生きるのであれば、お金の価値をどうとらえて生きていくかを考えなければならない。

しかし、「生命としてのシステム」の視点で生き方を見ていくのであれば、「生命としての価値」を基準にして見ていかなければならなくなる。

ならば、我々が持っている「生命システム」には、どういった価値基準があるのか。

この価値基準を知ることができたとき、真の意味で「生かされている」ということを知ることができるようになり、その結果、「やらされて生きる」ということがなくなって「生かされているからこそ生きよう」と思えるようになるだろう。

そう思えるようになれば受け身の意識ではなく、自らの意思で生きるようになっていくはずなのだ。

我々の「生命システム」は、「今を生きる」ようにできている。

あるいは、少し言い方を変えるなら、我々は「今を生きるように生かされている」といってもいいだろう。

この世界に、正解といえるものは何もないけれど、あえて正解という言葉を使わせて貰うのであれば、「今を生きる」ことが我々の「生命システム」の正解なのだ。

だから、我々は「今を生きれていない」と思うようになると、苦しさを感じるようになっている。

今を生きられていないからこそ、人は「やらされている」と感じるようになるものであり、そういった思いによってネガティブな思いを抱くようになっている。

その一方で、今に夢中にいなって生きることができたとき、人は生きているということを実感できるようになっていく。

人は、今に夢中になることができれば生きることが楽しくなるものだし、そういった楽しさから、自然とポジティブになるのが普遍的な原理なのだ。

だからこそ、今に夢中になって生きることができるようになれば、「生命システム」に沿って生きられるようになるため、この「私」が「生命システム」によって生かされているということを実感するようになっていく。

今に生きるということは、「生命システム」の循環の中で存在できるようになるため、「生命システム」の中で生かされていると感じられるようになる。

全ての生命は、今に生きていて「生命システム」の循環の中にある。

植物は、適度な太陽光と水分があれば、すくすくと成長していくことができる。

こういったことと同じで、我々もこの今に夢中になって生きることができるようになると、のびのびと自分自身を成長させることができるだろう。

我々が今に夢中になって生きることが、いわば植物にとっての適度な太陽光と水分なのだ。

今に夢中にいなって生きることができれば、我々自身が持って生まれた種子を存分に育てることができるようになる。

そうやって、生まれながらに持った種子をすくすくと成長させることができるようになると、ありのままの自分で生きられるようになっていく。

では、「夢中になって生きる」とはどういうことか。

それは、今ここで向き合っている対象とひとつになるということであり、その対象とひとつになることができれば、「自分を消すことができる」ということである。

「自分を消すことができる」ということは、まさに無我夢中の境地のことであり、ZONEの中にあるといってもいいだろう。

あるいは、大好きな人を抱きしめているとき自分が消えるたりする。

たとえば瞑想をしていて、ふと自分が消えることがある。

こういったとき、人は得もいえぬ心地よさを感じるものだ。

そして、こういった心地よさが、私に正解を与えてくれる。

つまり、心地よいということが「生命システム」の正解であり、生命システムと一致して生きるということである。

人は、自我が消えたとき、自分を超えた心地よさを感じられるようになるものであり、そういった心地よさを感じるとき、自分の力を超えた何かに「生かされている」と感じられるようになる。

「自分が消える」とは、境界がなくなるということであるため、境界が消えると、自分では知り得ない叡智が自然と流れ込んでくるものであり、そういった叡智が「私」をさらに大きく成長させてくれるようになる。

これが「生かされている」ということになる。

我々は、今を生きるように生かされていて、そういった仕組み(システム)の中で生きている。

この宇宙には今しか存在していない。

我々が、何かに夢中になっている瞬間、過去も未来も消えていく。

そういった過去も未来もない時間に存在するとき、人は心地よさを感じるようになる。

つまり、無心になって過去や未来を消し去ることができると、この宇宙というべき生命システムを活用できるようになって、「私」は生かされているということを認識できるようになるのだ。

だからこそ、まずは自分を生きなければならない。

自分が夢中になって喜びを感じられることを選択していかなければならない。

今を生きることで、宇宙と一つになることができれば、人は生かされて生きるようになることだろう。

今を生きるということは、宇宙の生命システムを活用することでもある。

だからこそ、「やらされている」と思って生きている限り、自分を生きることができないのだ。

「やらされている」という思いは、夢中になれていないということであり、自分を生きていない、今を生きていないということでもある。

自分を生きるということは、今に夢中になれることをして生きるということである。

あるいは、それがどんな状況の中であったとしても、今、していることに夢中になることができれば、宇宙の生命システムを活用して生きていけるようになるだろう。

我々は、この宇宙という生命システムによって生かされている。

こういった気づきが生まれると、生き方を一変できるようになる。

そして、この宇宙にある生命システムを活用することができるようになったとき、生かされながら生きるようになるだろう。

我々の心臓の鼓動も、天体の星々の運行も宇宙の生命システムの中で存在しているものであり、常に「今とともにある」。

そこで、多くの人が「今とともにある」という、この宇宙の生命システムをしっかりと認識して我々は生かされていると気づくようになれば、この社会の構造も一変することだろう。

我々の現在地は、地域によって異なるローカルなシステムの中で生きているのに過ぎない。

しかし、我々が高い視点の普遍的なシステムを使って生きられるようになったとき、生き方そのものが変容し社会の構造そのものが変化していくことだろう。

むしろ、誰もが今を生きられるようになれば、日本でも東南アジアの山岳民族の中でも、世界中のどこでも楽しんで暮らしていけるようになる。

我々が生命の本質を活用して生きれるようになったなら、社会という枠組みを越えてどこでも生きていけるようになるだろう。

そうやってどんな場所でも、今に夢中になって生きることができるようになったとき人は真の自由を手に入れることになる。

今と自分をシンクロいさせ宇宙の生命システムを取り入れて生きていけるようになっていき、宇宙と一つになって生きることができるだろう。

我々はシステムの中で生かされているし、選択肢はたくさん存在する。

選択肢があるということは、選べるということでもある。

我々が生まれながらに持っているシステムを選べば、生きるのが楽しくなっていくのは自然のことなのだ。

そのためにも、まずは自分を生きること。

自分を生きることができれば、やがて自分を消すことができるようになるから、やがて道が開かれていく。

少しアイロニックでもあるが、自分を生きれば自分を消すことができるようになって、この宇宙の生命システムを活用して生きていけるようになるだろう。

そうなれば、あとは「生命システム」の循環の中で楽しんで生きていけばいい。

我々が今に夢中になってこの瞬間を「喜び」の中で生きるとき、「生命システム」を活用しながら生きられるようになっていく。

これが新しい時代の生き方となることだろう。

我々は、システムによって生きる存在である。

どのシステムを使って生きるかは、その人次第だ。

「生命システム」の可能性は、我々の想像を超えている。

そういった未知なる可能性を使って生きることができるようになったとき、我々に飛躍が起こることだろう。

だから「やらされている」と思うことでも、「自分の意志でやっている」と思えるようになれば、どんなことでも夢中になるができる。

「いまここ」には、考え方を変えるだけでなることができる。

「生命システム」は、どんなときでも「いまここ」に常に存在している。

人が「今」を生きるとき、この宇宙の仕組みとひとつになって生きてけるようになるだろう。

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