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#175 明治期岩手の鉱山人脈【宮沢賢治とシャーマンと山 その48】

(続き)

宮沢賢治の祖先は江戸時代に京都から来た藤井家で、近江商人の流れを汲むと聞いた記憶があるが、京都出身で、明治期に岩手にゆかりの人物に古河市兵衛がいる。古河はその名の通り、古河財閥の創始者であり、足尾銅山などの鉱山開発を通して、一代で財を成した。

古河は、京都で生まれた後、盛岡へとわたり、京都小野組の番頭の養子となり、近江商人の流れを汲む小野組で地位を高める。近江商人は、現在の花巻市石鳥谷地域などで酒造業なども営み、旧盛岡藩内でネットワークを築いていたようだ。

小野組は明治維新の混乱で倒産するが、独立した古河は、政府から鉱山払い下げを受け、特に足尾銅山の生産量を飛躍的に向上させ巨万の富を得る。その後は、熊野を持つ紀州藩出身の政治家・陸奥宗光や、南部藩出身の政治家・原敬を資金面で支えたとも言われる。

南部藩は、尾去沢鉱山などを経営しており、尾去沢鉱山は奥州藤原氏の時代には東大寺や中尊寺で用いられた金を産出したと伝えられ、その後は銅も産出するなど、南部藩にとっての重要な資金源だった。その尾去沢鉱山の経営を担っていたのが、村井茂兵衛という人物で、村井も明治維新後に没落してしまうが、古河が番頭を務めた小野組も、元々は村井の姓を名乗っていた。

先の釜石の製鉄の例ではないが、鉱山開発には特有の技術が必要で、独特のネットワークが構築されていた痕跡が見え隠れする。上に登場した京都から渡ってきた人物達が、どのように関係していたのかも気になる。

そして、賢治の祖先も京都から来たとすれば、宮澤家がそのネットワークとどう関係し、鉱山開発にも深く関わった京都ゆかりの人々からどのような影響を受けたのかも気になる。

そして、石っこ賢さんと呼ばれた、賢治の無類の石好きが、単なる賢治個人の趣味なのか、宮澤家の家業にとって、それ以上の意味を持つのかも気にはなるのだが、その点については、わからないことばかりだ。

【写真は、東北の財によって修復されたとも言われる「奈良東大寺」】

(続く)

2024(令和6)年4月7日(日)


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