斯波哲矢

「宮沢賢治の風景と、新渡戸稲造・原敬・佐藤昌介達の時代」 (時々Dickinson) イーハトーブ生(札幌農学校経由)イーハトーブ住。

斯波哲矢

「宮沢賢治の風景と、新渡戸稲造・原敬・佐藤昌介達の時代」 (時々Dickinson) イーハトーブ生(札幌農学校経由)イーハトーブ住。

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    岩手の賢治?賢治の岩手?(6 終)【宮沢賢治の風景と、新渡戸稲造・原敬・佐藤昌介達の時代(20)】[#50]

     宮沢賢治が生きた時代に起こった様々な岩手の出来事(地震・津波・飢饉)や、岩手の自然が賢治作品に影響を与えた、ということは、多くの人が理解しています。  ただ、岩手の(厳しい)自然、(厳しい)時代、(賢治に対して厳しい)人々、だけが賢治の作品に影響与えたのならば、岩手は賢治の足を引っ張る、マイナスの存在のようにも見えます。  ダメな岩手を、理想郷「イーハトーブ」につくり変えようとしたのが賢治だとするならば、「賢治」の評価が高まるほど、逆に「岩手」の評価は下がる可能性もあり

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      • 賢治の妹・トシのゴシップ記事【宮沢賢治と妹・宮澤トシ(3)】#53

        ○   宮澤トシ東京進学の背景    賢治の妹・トシが東京の日本女子大学へ進学した理由には、花巻高等女学校時代、地元の新聞記事に、トシと教師の関係がゴシップ記事として登場したことが影響したとも言われています。  当時の新聞には、政治的な対立をあおるような内容が書かれていて、事実かどうかもわからない内容も、おもしろおかしく書かれていたようです。    トシの記事の背景には、宮澤家があった地域が支持していた政友会、隣町が支持していた立憲同志会が激しく対立があり、宮澤家の側と対立

        • 花巻の秀才・宮澤トシ【宮沢賢治と妹・宮澤トシ(2)】#52

          ○ 宮澤トシの高校時代    宮沢賢治の妹・トシは、子供の頃から成績優秀で、1911(明治44)年に、開校したばかりの花巻高等女学校(現在の花巻南高校)へ入学します。トシは花巻高等女学校の第1回入学式に出席しますが、1・2年生が同時に入学したため、1年生だったトシは2回生となります。   ○ 宮澤トシの大学進学    高等女学校でも常に成績優秀だったトシは、卒業後の1915(大正4)年に、東京の日本女子大学家政学部予科1年生となり、学生寮である「責善寮」へ入ります。  日本

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          • 宮沢賢治の妹・宮澤トシが亡くなった日から100年【宮沢賢治と妹・宮澤トシ(1)】#51

            ○   宮澤トシの命日    宮澤トシは、詩人・童話作家などとして有名な宮沢賢治の妹です。  1898(明治31)年11月5日に、現在の岩手県花巻市で生まれ、 1922(大正11)年11月27日に亡くなりました。亡くなった時は24才の若さでした。    今日2022(令和4)年11月27日は、トシが亡くなった日から、ちょうど100年目となります。   ○   宮沢賢治とトシ  賢治とトシは、父・宮澤政次郎と母・イチの子として生まれ、賢治が長男、次に生まれたトシが長女で、2

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            岩手の賢治?賢治の岩手?(5)【宮沢賢治の風景と、新渡戸稲造・原敬・佐藤昌介達の時代(19)】[#49]

             いつの頃からか、「なぜ岩手から、宮沢賢治を生み出すことができたのか?」という疑問が、頭の中でモヤモヤとしていた気がします。その答えを、真面目に一生懸命探していた訳でもなかったので、そのモヤモヤが晴れることはありませんでした。  逆に、「岩手が賢治を生み出した理由」ではなく、「岩手の風土が賢治を苦しめた」的な話は、比較的よく目にします。  例えば、「羅須地人協会」の活動に対して否定的だった周囲の人々、賢治作品を理解できなかった周囲の人々(岩手に限らないかもしれませんが)、

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            岩手の賢治?賢治の岩手?(4)【宮沢賢治の風景と、新渡戸稲造・原敬・佐藤昌介達の時代(18)】[#48]

             宮沢賢治の世界は、現実に存在する「岩手」から、ややかけ離れているとは言っても、賢治作品には、岩手の自然や風土、人々も描かれています。ただ、これらも、賢治が持つ独特のフィルターを通して捉えられた「岩手」の姿で、一般の人が同じ景色を見たとしても、賢治のようにその景色を捉えることは難しい。岩手人の実感として、岩手の風土と宮沢賢治が今一つ結びつかず、賢治を「異次元の人」という感覚で見ているのではないでしょうか。  岩手以外の人達が「岩手出身の宮沢賢治ってすごいよね。」と言ったとし

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            岩手の賢治?賢治の岩手?(3)【宮沢賢治の風景と、新渡戸稲造・原敬・佐藤昌介達の時代(17)】[#47]

             多くの岩手人にとって、身近なようで、意外と身近とも言えない不思議な存在が、「宮沢賢治」であるように思われます。   「イーハトーブ」「エスペラント」「銀河鉄道」など、賢治を象徴する世界は、現実の岩手からイメージしづらい世界観です。自分達のひいおじいちゃんや、そのさらに上の世代の岩手のお年寄り達が、「イーハトーブ」やら「エスペラント」などという得体の知れない言葉を使うことはなかなか想像できません。  現代の岩手の遠野で昔語りをするおじいちゃんやおばあちゃんならば、自分達の

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            岩手の賢治?賢治の岩手?(2)【宮沢賢治の風景と、新渡戸稲造・原敬・佐藤昌介達の時代(16)】[#46]

             「岩手人が「宮沢賢治」を過小評価している」と言ったものの、岩手を旅行した人や、岩手に住む人からは、 「いやいや、岩手は宮沢賢治だらけじゃないか」 と、言われそうな気もします。  確かに、盛岡から北に走る鉄道の名は「いわて銀河鉄道」で、かつて盛岡の西にあった屋内レジャープールの名は「けんじワールド」。その他にも「イーハトーブ」や「銀河」を中心に、賢治ゆかりの名前が乱立している岩手は、「県民全員、賢治好き」であるかのように見えます。  その一方で、岩手県外から来た熱狂的な賢

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            岩手の賢治?賢治の岩手?(1)【宮沢賢治の風景と、新渡戸稲造・原敬・佐藤昌介達の時代(15)】[#45]

             「岩手」以外の人が、「岩手」について連想するものは、概ね2つしかないという事を知ったのは、私が岩手を離れていた約10年間の事です。    その2つとは「宮沢賢治」と「平泉」。  今ならば、そこに「大谷翔平」が加わるかもしれませんが、当時、大谷君はまだ幼く、この2つこそが「岩手」と結びつけて記憶されている名前でした。  逆に、岩手に住む人は、「岩手」に何を連想するのでしょうか?  それは「リアス式海岸」かもしれず、「わんこそば」かもしれず、「小岩井農場」かもしれません。岩

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            原敬の命日に想う(2)(終)【宮沢賢治の風景と、新渡戸稲造・原敬・佐藤昌介達の時代(14)】[#44]

             10代前半の若き原敬は、南部藩のリーダー楢山佐渡の切腹など、南部藩が崩壊していく様子に間近で目にしながら、原の実家も貧しさに苦しみました。その時、原の父親はすでに亡くなっており、原自身、南部藩没落の影響で苦労しながら学ぶこととなり、明治維新の出来事が、その後の原敬に大きな影響を与えたことは間違いないと思われます。  総理大臣となって長州のラスボス的な山県有朋からも信頼を勝ち取り、南部藩を敗北に追い込んだ明治維新政府が目指した五箇条の御誓文の精神 ・ 議会により幅広い意見に基

            原敬の命日に想う(1)【宮沢賢治の風景と、新渡戸稲造・原敬・佐藤昌介達の時代(13)】[#43]

             今日は、原敬が東京駅で亡くなった1921年11月4日から101年目となる命日です。総理大臣在職中の暗殺によるものでした。  本来は、南部藩のエリートとして成長するはずだった原ですが、少年時代の南部藩の戊辰戦争の敗北により、その人生が大きく狂い始めたはずです。しかし、亡くなった時の原は総理大臣の職にあり、盛岡で平穏に暮らしていたとしたら、恐らくたどり着くことがなかった地位まで登り詰めました。しかも、総理となる以前から、原は長い間、日本の政治の中心で実力者として君臨し続けていま

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            さまよう若き原敬(7)(終)【宮沢賢治の風景と、新渡戸稲造・原敬・佐藤昌介達の時代(12)】[#42]

            〇 外交官として中国へ  『官報』に関わる地方巡回の途中で、東京へ呼び戻された原敬は、中国の天津での外交官としての勤務を命じられます。これは、ベトナムをめぐるフランスと清(現在の中国)の対立が深刻化したことによるものです。フランス人神父との交流によってフランス語にも通じ、それ以前には漢文も学んでいた原にふさわしい仕事とも言え、今まで以上の好待遇で、エリート外交官として中国へ行くこととなります。 〇 薩摩の有力者の娘との結婚と「平民宰相・原敬」の始動  中国での仕事が決ま

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            さまよう若き原敬(6)【宮沢賢治の風景と、新渡戸稲造・原敬・佐藤昌介達の時代(11)】[#41]

            〇 フランス語が、原敬をエリート官僚の道へ  1882年の外務省入省で、それまでのキャリアの遅れを一気に取り戻した原敬ですが、これは、この当時の人事制度の自由度が高かったことによると言われています。そして、外務省にフランス語に通じた人材が求められたことが、原の外務省入省のきっかけであり、かつて、フランス人牧師と行動を共にしていた経験が活きたこととなります。  当時の世界情勢において、ベトナムを巡るフランスと清(現在の中国)との対立により、外務省でのフランス語人材の必要性が高

            さまよう若き原敬(5)【宮沢賢治の風景と、新渡戸稲造・原敬・佐藤昌介達の時代(10)】[#40]

            〇 大阪の政府系新聞への入社と7カ月での退社  1882年に郵便報知新聞を退社した原敬は、退社して2カ月に、政府系新聞として大阪で創刊された「大東日報」へ入ります。この入社によって高給取りとなった原は、この時期に、盛岡の作人館時代の同級生で、後に北海道帝国大学総長となる、花巻出身の佐藤昌介のアメリカ留学を援助します。  しかし、わずか七カ月の在籍の後、意見の相違と思われる理由から退社し、再び東京へと戻って旧友たちと憂さ晴らしの宴会をしていたと言われ、再び進路が閉ざされたかの

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            さまよう若き原敬(4)【宮沢賢治の風景と、新渡戸稲造・原敬・佐藤昌介達の時代(9)】[#39]

            〇 「岩手山のきこり」原敬  法学校を退学となった原敬は、中江兆民の仏学塾に通います。そして、山梨の新聞へ「峡中新報」へ寄稿することとなり、ペンネームを「鷲山樵夫」と名乗ります。故郷・盛岡の岩手山は、別名「岩鷲山」と呼ばれており、「鷲山樵夫」は、「岩手山のきこり」といった名前です。 〇 郵便放置新聞社入社と退社  その後1879年、原は23才で郵便報知新聞社へ入り定職へつくことができました。そこでの原は地方分権を主張しますが、地方についての理解をより深めるため、渡辺洪基

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            さまよう若き原敬(3)【宮沢賢治の風景と、新渡戸稲造・原敬・佐藤昌介達の時代(8)】[#38]

            〇 腹が減った原敬達が退学処分へ  難関だった受験を突破し、司法省法学校に入学した原敬は、未来の司法エリートとなるべく、厳しいカリキュラムの中で学生生活を送ります。学費の負担のない8年間の学生生活を送るはずだった原ですが、入学から2年半が立った頃、退学させられます。学生寮での食事の量が少なかった事をきっかけに、学生達の不満が噴出した際に、学生達の交渉役を勤めた事が原因とされ、この事件で退学処分となった10数名の中に、原が含まれていました。  この退学処分によって、法律のエリ

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