「賢治の道」と「日高見の道」

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最近の記事

#188 信仰の百貨店・比叡山と賢治【宮沢賢治とシャーマンと山 その61】

(続き) このように、宮沢賢治を父・政次郎が誘った比叡山の西塔とは、親鸞、聖徳太子、弁慶、摩多羅神など、様々な信仰が集まる聖地でもあり、天台宗の幅の広さを感じることができる場所でもある。 ここで政次郎が賢治に対して何を語ったのかはわからないが、賢治の日蓮主義に対する熱狂的な態度に変化をもたらそうとする場所としては、確かに相応しい場所であるように見える。伝教大師を記念する機会に合わせた偶然なのかもしれないが、政次郎にとっては、やはり千載一遇の好機として思惑があったのではない

    • #187 賢治と弁慶と聖徳太子【宮沢賢治とシャーマンと山 その60】

      (続き) 宮沢賢治の父・政次郎や宮沢家が信仰していた浄土真宗の開祖である親鸞もまた、比叡山で修行した人物だ。親鸞の修行の地は、根本中堂のある東塔から少し離れた西塔にあり、二人は、父の誘いで西塔へは足を運んでいる。 西塔での二人の目的地は「にない堂」だったようだが、にない堂とは法華堂と常行堂の二つ建物を指す言葉だ。親鸞の修行の地も、にない堂の近くにあるが、興味深いのは、聖徳太子もこの地を訪れたとされていることで、聖徳太子ゆかりの椿堂という建物がある。 聖徳太子もまた、法華

      • #186 賢治と比叡山と日蓮【宮沢賢治とシャーマンと山 その59】

        (続き) 宮沢賢治にとって比叡山での経験が大きな転機となったと考えられることや、その後の賢治の創作活動が比叡山の信仰と共鳴するからこそ、賢治の歌が比叡山に掲げられているのではないかと思われる。 しかも、賢治の碑がある場所は、比叡山全体においても最も重要な建物の1つである根本中堂のすぐ脇であり、賢治の碑の隣には最澄の少年時代の像が建っている。なぜこれほどまでに賢治の碑が、比叡山における重要な場所に建てられることとなったのか、事情はわからないが、数々の文学者達が文章に残した比

        • #185 宮沢賢治と天台宗・最澄【宮沢賢治とシャーマンと山 その58】

          (続き) 宮沢賢治と政次郎の父子旅について、二人は多くを語っていないものの、比叡山への旅の目的については、幾つかが挙げられている。 まず、政次郎が、賢治の宗教に対する態度を、より柔軟なものに導きたいと考えたことだ。伊勢や比叡山への旅自体が、このような政次郎の意図によって計画されたようだ。 また、二人が比叡山を訪れた時、伝教大師、すなわち比叡山に天台宗を開いた最澄の生誕千百年大法要祭があった、と言われている。 最澄は、平安時代に天台宗を開き、その後の日本仏教の展開にとって

        #188 信仰の百貨店・比叡山と賢治【宮沢賢治とシャーマンと山 その61】

          #184 宮沢賢治と比叡山【宮沢賢治とシャーマンと山 その57】

          (続き) 宮沢賢治と政次郎の親子は、伊勢では伊勢神宮を中心に、京都では比叡山の延暦寺を訪れたと言われている。 伊勢神宮は、明治維新の新政府を支えた国家神道にとっての聖地であり、当時の信仰にとっての最重要施設の1つであることから、当時の信仰を語る上では欠かせない場所だったのかもしれない。 一方で、不思議に思えるのは、二人が比叡山を訪れている事である。宮澤家や政次郎が信仰していた浄土真宗の本山は京都の西本願寺であるし、日蓮宗の総本山は山梨県身延山の久遠寺だ。 そのように考え

          #184 宮沢賢治と比叡山【宮沢賢治とシャーマンと山 その57】

          #183 賢治の信仰と父の信仰 【宮沢賢治とシャーマンと山 その56】

          (続き) 宮沢賢治が、信仰や思想について並々ならぬ興味と知識を持っていたことに対して、父・政次郎もまた、信仰や思想について、賢治と同等か、もしくは、賢治以上の興味や知識や経験を持ち合わせていたのではないかと思われる。 暁烏敏などの、当時の浄土真宗の思想的リーダーを花巻へと招くのに、どれほどの費用が掛かったのかわからないが、政次郎はそれを可能にするだけの財力と同時に、信仰に対する興味や情熱を持っていた。しかも賢治より一世代前の人間として、明治維新によって失われつつあった多様

          #183 賢治の信仰と父の信仰 【宮沢賢治とシャーマンと山 その56】

          #182 東京の賢治と父・政次郎【宮沢賢治とシャーマンと山 その55】

          (続き) 花巻での激しい布教活動の後、東京へ家出しながら、再び花巻へ戻るまでの間、東京で何が起き、何をきっかけに宮沢賢治が花巻へ戻ることとなったのか、という点はとても興味深い。帰郷には様々な理由があるようだが、帰郷の理由は複合的で、決定的な理由は判明していないように思われる。 賢治の東京生活におけるトピックスとしては、親友の保坂嘉内と東京帝国図書館で決別したことや、父・政次郎が賢治を誘って伊勢・京都方面へ旅行したこと、妹・トシが花巻で病に伏せたことなどがある。賢治と、保坂

          #182 東京の賢治と父・政次郎【宮沢賢治とシャーマンと山 その55】

          #181 賢治の家出と帰郷【宮沢賢治とシャーマンと山 その54】

          (続き) 宮沢賢治が残したメモなどの中に、この時代の様々な信仰に興味を持っていた痕跡が残されているのは既に見てきた通りで、特にも、晩年に残した手帳にその傾向が多く残っているようだ。 賢治は、地質学や天文学、物理学などの最先端の科学に対して飽くなき興味を抱くとともに、世界中の思想や信仰に対しても非常に強い興味を持っていたと思われる。その姿は「思想・信仰オタク」のようでもあり、宮澤家の恵まれた経済力ゆえに、賢治は自らの好奇心を躊躇なく満たしていたように見える。 恐らく、そん

          #181 賢治の家出と帰郷【宮沢賢治とシャーマンと山 その54】

          #180 明治維新と信仰【宮沢賢治とシャーマンと山 その53】

          (続き) 修験道にゆかりの深い神仏習合の「権現」が神楽で舞われることについては、神楽が修験道にゆかりが深いことを考えると違和感がない。しかし、先に触れたように、その権現舞と並んで明治維新後の新政府の信仰としての国家神道を支えた「記紀神話」に基づく演目が並ぶということに対しては、やや違和感も感じられる。神仏習合とは言えども、修験道と国家神道では、信仰の形態は異なっているのではないだろうか? 推測に過ぎないものの、もしかすると明治維新以前は修験道的だった神楽の演目は、明治維新

          #180 明治維新と信仰【宮沢賢治とシャーマンと山 その53】

          #179 早池峰神楽と修験道と明治維新【宮沢賢治とシャーマンと山 その52】

          (続き) 神仏習合という日本人が持つ複雑で曖昧な信仰の形の中で、無数に存在していた土着的な信仰がどのように体系化されていたのか、また、どの程度の拡がりを見せていたのかは、今となってはわからないことが多いようだ。まして、維新後に、国家の信仰の枠組みから外れていく中で、どのように変質していったかを追うことも、今では困難であろう。 例えば、花巻の大迫地域で伝承され、日本で初めてユネスコの世界文化遺産に認定された早池峰神楽は、元々は早池峰の修験の信仰と強い結びつきがあったと言われ

          #179 早池峰神楽と修験道と明治維新【宮沢賢治とシャーマンと山 その52】

          #178 偉大なる父と賢治【宮沢賢治とシャーマンと山 その51】

          (続き) 宮沢賢治が生きた時代は、信仰が大きく揺らいだ時代でもある。明治維新による神仏分離は、仏教の衰退、神道の復権へ向けた一本道だったわけではなく、揺り戻しも見せる。 賢治の父・政次郎が花巻に招いて講習会を行った暁烏敏や、交流を持っていた近角常観などは、浄土真宗復権の新たなリーダーでもあり、賢治が信仰した日蓮主義の国柱会のリーダー田中智学も、国家との距離を縮めていった。 驚くべきは、賢治の父・政次郎が花巻に招いた暁烏敏などが、明治期仏教の指導的立場として今も語り継がれ

          #178 偉大なる父と賢治【宮沢賢治とシャーマンと山 その51】

          #177 神様みたいなアイドルや猫【宮沢賢治とシャーマンと山 その50】

          (続き) 神社仏閣に限らず、芸能人やスポーツ選手までもが信仰対象のような立場となり、芸能人の一部は「アイドル」とも呼ばれる。アイドルの意味は「偶像」で、偶像崇拝という宗教用語もあるくらいだから、傍から見ると、宗教の一団の如きファンを持つスポーツ選手やアイドルも存在する。 空前の大ブームと言われている「猫」人気も、興味がない人間にとっては、合理性を超えた、ある種の信仰のようにさえ見える。宮沢賢治が、猫に対して動物以上の神秘性のようなものを感じているように見えるのも興味深い。

          #177 神様みたいなアイドルや猫【宮沢賢治とシャーマンと山 その50】

          #176 多神教?無宗教?【宮沢賢治とシャーマンと山 その49】

          (続き) ここまで、個人的な興味に任せ、とりとめもなく様々なテーマを取り上げてきた。元々は、宮沢賢治と日蓮主義等の関係から始まった興味だったが、思いがけずテーマが拡がり、自分があまりにも日本人の信仰に対して無知であったことに気付かされるきっかけともなった。以前にも書いたが、ここで書いてきたことが、賢治と関係するのか、しないのか、それすらよくわからない。ただ、自分自身にとっては、日本人の信仰や思想を考えるきっかけとなった。 「日本人は無宗教か?多神教か?」というトピックスが

          #176 多神教?無宗教?【宮沢賢治とシャーマンと山 その49】

          #175 明治期岩手の鉱山人脈【宮沢賢治とシャーマンと山 その48】

          (続き) 宮沢賢治の祖先は江戸時代に京都から来た藤井家で、近江商人の流れを汲むと聞いた記憶があるが、京都出身で、明治期に岩手にゆかりの人物に古河市兵衛がいる。古河はその名の通り、古河財閥の創始者であり、足尾銅山などの鉱山開発を通して、一代で財を成した。 古河は、京都で生まれた後、盛岡へとわたり、京都小野組の番頭の養子となり、近江商人の流れを汲む小野組で地位を高める。近江商人は、現在の花巻市石鳥谷地域などで酒造業なども営み、旧盛岡藩内でネットワークを築いていたようだ。 小

          #175 明治期岩手の鉱山人脈【宮沢賢治とシャーマンと山 その48】

          #174 石っこ賢さんと鉱山開発 【宮沢賢治とシャーマンと山 その47】

          (続き) 産業革命期の釜石の製鉄に伝わる話は、遠野物語にでも登場しそうな不思議な話だ。 橋野の近くの栗林にある工場跡の中の神社には、祠のすぐ脇に、「初湯銑」と呼ばれる鉄が、御神体にように鎮座している。「初湯銑」とは、初めて出来上がってきた鉄の塊だろうか。 明治に繰り広げられたこのような伝承や、製鉄の身近にある信仰を目の当たりにすると、日本人にとっての鉄作りは、単なる物の製造とは意味合いが異なるのではないかと思わされる。 さらに時代を遡れば、それは神事に近いような行為で

          #174 石っこ賢さんと鉱山開発 【宮沢賢治とシャーマンと山 その47】

          #173 近代製鉄と夢の老人のお告げ【宮沢賢治とシャーマンと山 その46】

          (続き) 失敗続きだった岩手県の釜石での近代製鉄だが、遂に成功の日を迎える。成功したのは、49回目の挑戦の時だったと伝えられている。 外国人を招き多額の投資をしながら、官営での製鉄業が失敗に終わった後、設備を引き取って製鉄に挑んだのが、静岡出身の田中や横山だった。しかし、やはり失敗は続き、48回の失敗の後、成功の見通しが立たず、従業員を解雇することとなった。すると、現場の責任者だった高橋亦助の夢に、不思議な老人が現れた。 その老人曰く「これまで良い鉱石として使用していた

          #173 近代製鉄と夢の老人のお告げ【宮沢賢治とシャーマンと山 その46】