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#188 信仰の百貨店・比叡山と賢治【宮沢賢治とシャーマンと山 その61】

(続き)

このように、宮沢賢治を父・政次郎が誘った比叡山の西塔とは、親鸞、聖徳太子、弁慶、摩多羅神など、様々な信仰が集まる聖地でもあり、天台宗の幅の広さを感じることができる場所でもある。

ここで政次郎が賢治に対して何を語ったのかはわからないが、賢治の日蓮主義に対する熱狂的な態度に変化をもたらそうとする場所としては、確かに相応しい場所であるように見える。伝教大師を記念する機会に合わせた偶然なのかもしれないが、政次郎にとっては、やはり千載一遇の好機として思惑があったのではないだろうか。

恐らく大変な想いをしながら比叡山へ向かったのに比べ、次の目的地である叡福寺は、あっさりと目的地を変えているようにも見えるので、やはり比叡山への旅は重要な意味を持っていたように思える。

その後、二人は東京へ戻ったものの、賢治がすぐに花巻に帰ることはなかった。結局、トシの発病まで東京を離れることはなく、実際に、比叡山での経験が、賢治の信仰にどれほどの影響を及ぼしたのかはよくわからない。ただ、賢治作品等の中に登場する、様々な信仰のうちのいくつかが、比叡山には存在している。

そして、賢治が暮らした花巻にほど近い平泉の中尊寺や毛越寺も、比叡山にルーツを持つ天台宗の寺であり、花巻の修験道の聖地・早池峰もまた、天台宗系の修験から影響を受けていたと思われる。

そもそも、賢治が東京に家出していた際に拠点としていた上野の一帯は、江戸時代は天台宗の関東総本山であった。現在でも上野にある東叡山寛永寺がその名残を留めているが、江戸時代は現在とは比較できないほどの大きさだった。現在の動物園や様々な博物館・美術館などの敷地は、もともと寛永寺の境内だった場所で、現在文化施設が立ち並ぶ場所が全て寛永寺だった。東叡山という名も、比叡山に並ぶ存在として、東の比叡山の意であり、これまで登場した、日光や平泉の中尊寺、毛越寺、出羽三山の天台系の寺も、寛永寺に属していた。

繰り返しとなるが、賢治が具体的にどんな信仰からどんな影響を受けたかはわからない。ただ、賢治を取り巻いていた様々な信仰を見てくると、想像以上の幅の広さを持っている。そして、それらの信仰が賢治へ与えた影響がどれほどかわからないとはいえ、大なり小なり、賢治によって何らかの形で触れられている。

【写真は、比叡山の西塔の常行堂】

(続く)

2024(令和6)年5月11日(土)


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