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#151 賢治のメモと修験の山【宮沢賢治とシャーマンと山 その24】

(続き)

私が、宮沢賢治と修験道の関係について意識し始めたのが、どのタイミングだったか記憶が定かではないが、賢治の資料を読んでいる時、賢治の手帳に「羽黒山」「月山」「湯殿山」の文字を見つけ、不思議な感覚になったのを覚えている。

出羽三山と呼ばれるこれらの山々は、現在でも修験道の山として知られる。

「賢治=日蓮宗」のイメージが強く、日蓮宗とは無縁に見える出羽三山について賢治がメモを残していることが不思議だった。

早池峰も修験の山であるし、出羽三山も東北における修験道の一大聖地である事から、興味が掻き立てられる場所だ。

出羽三山は、山形県の庄内地方の東側に位置する山々で、江戸時代以前も東北地方の修験道の一大拠点だった。明治維新の廃仏希釈でも、新政府側と激しい攻防があり、神仏分離にも抵抗したと言われる。

出羽三山を構成する山や、それぞれの山の管理者は、時代によって変化している。江戸時代末期は、天台宗系と真言宗系の修験道によって山ごとに管理されていたが、神道と仏教は習合し、天台も真言も神も、山の修行の場を共有していた。

出羽一帯は古い時代から神域であり続け、その支配権を巡り、様々な宗教的勢力が攻防し、出羽三山自体が、太古から人間の本能に訴えかける絶対的な聖地として存在しているかのようだ。

神道や仏教の各宗派がそれぞれの教義を体現する聖地を持っていると言うよりは、それぞれの信仰が、限りある聖地を巡って教義や伝承を上書きしながら、陣取り合戦をしているようにも見える。

奥州藤原氏の時代は、平泉に拠点を構える藤原氏も、出羽への支配権を及ぼそうとしていたようだ。平泉も出羽も同じ東北であり、花巻の早池峰も平泉の支配下にあったであろうから、かつては同じ修験道の文化を持っていたのかもしれない。

しかし、早池峰については、修験道の歴史はほとんど残されていないと言う。

それは、修験道が極度に実践を重視している影響かもしれない。もしくは、記録に残せば、逆にいつかは消される運命を予期し、「秘すれば花」として隠しながら、神楽や伝承にのみ、その香りを残そうとしたためかもしれない。

【写真は、出羽三山神社】

(続く)

2024(令和6)年3月14日(木)


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