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関西オルタナティブの歴史其の一

1986年エッグプラント閉店から程なくして全国的に未曾有のバンドブームが起こる。 ただ、ブームの中枢となっていたホコ天もイカ天の放映もなかった関西地区では独自の発展を遂げることになる。 バンドブームと時を前後して関西では若者の間で「4時ですよーだ」のMCを務めていたダウンタウンが圧倒的に支持され、所謂第二次漫才ブームも起こっていた。 奇しくもバンドブームを牽引したブルーハーツの甲本ヒロトとダウンタウンは同い年、面白い事実として、ブルーハーツは当初拠点としていた東京より関西でブ

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    • 関西ハードコアの歴史其の九

      最後に京都の話にも触れとこうと思う。ビートクレイジーや、1981年に組織された企画団体でバンパイヤ!の和田さん、ウルトラビデの藤原さん、コンチネンタルキッズのランコさんとシノヤンらによって運営されとった。京都大学西部講堂を拠点に、独自の企画を生み出してたんやけど、当時京都でライブしようと思ったら、ビークレと繋がってないとやらしてもらえんっちゅう変な状態にあった。別に圧力とかやなくって、ライブハウスがパンクバンド枠は、ビークレ窓口のみっていう形を好んでた。ケンカやら機材盗まれた

      • 関西ハードコアの歴史其の八

        SOBと共に80年代後半の関西ハードコアシーンを支えたのがOUTOや。幼稚園から一緒やったブッチャーとミッチュンが中一の時、同級生のヒトシとヤンマンを誘って始まった。ブッチャーはZOUOのチェリーさんの実弟で、地元の兄貴分やったチェリーさんの影響で音楽も始めたんやけど、何と中二でZOUO、メマイと一緒にマントヒヒデビューするんや。そこからはもう、マントヒヒの他にスタジオワン、スタジオあひるの三つを、ZOUO軍団みたいなのがあって、ライブを見に行ったりして、ラフィン、モホークス

        • 関西ハードコアの歴史其の七

          エッグプラントといえばやっぱりSOBやろな。エッグ開店直後くらいにワーミーでラリー(ex MOBS)さんとOiやってたトッツアン(Vo.)が所謂ツレで始めたんや、メンバーはタンク(Bs.)、キン(Ds.)、カス(Gt.)や。 タンクはその後OUTOに入ってもた。 ほんでV.A.『Last Punk Osaka』が出たあたりで、セキ(Gt. ex BONES)、ナオト(Bs.※新谷がおったバンドで多分ex BRUTUS)、ヤスエ(Dr. ex SELTIC FROST)が入った

        関西オルタナティブの歴史其の一

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        • 関西ハードコアの歴史
          1本
        • 関西ハードコアの歴史
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        記事

          関西ハードコアの歴史其の六

          エッグプラントは、スタジオあひるが閉店してしばらく後、オープンしたライブハウスや。 当時、世間ではメタル全盛やったし、ひざにバンダナ巻いてるようなARB/スライダーズタイプも幅をきかせとった。 ハードコア、パンクはもちろん、ニューウェイヴ、ポジパン等も異端もいいとこで、スタジオあひる閉店以来、そういうバンドが集まって出演できる店はほとんどなかった。 エッグができてやっと、そういう音楽、既成のハコからはみでた音楽をみれる場所ができたんや。 エッグは地下鉄四ツ橋線『花園町駅』を

          関西ハードコアの歴史其の六

          関西ハードコアの歴史其の五

          今回はパンクスが集ったスポットを紹介しようと思う。 オレンジルームって知ってるやろか? かつて阪急ファイブの8階にあったハコや。 ここはライブハウスというより、アングラ劇団などには重宝された場所でギグの場所すらなかったハードコアの連中もここやったら思う存分やれた。 (でも阪急ファイブちゅうのは若者ファッションの最先端ビル)やったんやけど・・・ AA不法集会もここで何度もやったで。 後に同ビルに『M-KIDS』下りて北側あたり(エスト)に『BLACK』が出来て、ガーゼシャツや鋲

          関西ハードコアの歴史其の五

          関西ハードコアの歴史其の四

          マントヒヒといえばあとはZOUOやな。元々は住之江の加賀屋公園でスケボーやってる集団やったんやが、ブームも去ってパークも潰れてリーダーのチェリーさんがバンドでも組もかってことで後輩のデバソ(Gt.)、沖野(Bs.)、BUNBUN(Dr.)を誘ったのが始まりや。当時チェリーさんらはナシの追っかけみたいに毎回ライブに通いつめてたんやけど、暴れたりいらんことばっかりやってたから、他のバンドにアホって言われとった。で、『あのアホらバンドやってへんのか?』ってなって、いきなりマントヒヒ

          関西ハードコアの歴史其の四

          関西ハードコアの歴史其の三

          ナシは、LAUGHIN'NOSE加入以前の岡村さん(PON)(B.)を中心に79年秋に結成された特異なビート感覚を持つバンドやった。半年程の活動を経てKOSHI(Vo.G.)が加入し高速パターンへと進化していったその過程は当時PONのベースがモールスベース(モールス信号みたいな矢継ぎ早のピッキングのベース)と呼ばれとった事からも想像できるんやけど、更に80年代初頭の関西シーン中枢で常に一歩先から存在感を示しとったKOSHIの毒の入ったヴォーカルとギター、当時最高速と言っても過

          関西ハードコアの歴史其の三

          関西ハードコアの歴史其の二

          で、マントヒヒってとこは決してライブハウスと呼べるものではなく、ジャズ喫茶という名目で営業しておったんやが、まぁ汚い。 天王寺とあいりん地区(関東でいう寿町?)の間くらいにあった店で、防音なのか壁に発砲スチロールみたいなんがむき出しで、ようあんなところでバンドを演奏させたなちゅうくらいのもんやと思うわ。 まあ老舗で憂歌団とか阿部薫なんかがかつて拠点にしてたくらいやから。 でも、ドラム置くとこ無いくらい狭い店やったんや。 店長の中島さんの新しいん好きがあないな形になったんやろな

          関西ハードコアの歴史其の二

          関西ハードコアの歴史test版

          もともと'70年代後半の東京ロッカーズに対して関西NOWAVEというのがあったんや。 関西ではINU、アーントサリー、ウルトラビデ等。 パンク・ニューウェーヴからより自由で前衛的な音楽がアングラで流行りだした。 その中心的人物が林直人(ex.INU) さんやったわけや。 '70年代終わり頃、当時、林さんは『アウトサイダー』というミニコミを発行・発信しておった。 その拠点が、大阪阿倍野にあったボロボロのジャズ(ロック)喫茶『マントヒヒ』なんや。 仙台から小山さん(YOU)が大阪

          関西ハードコアの歴史test版