関西ハードコアの歴史其の八

SOBと共に80年代後半の関西ハードコアシーンを支えたのがOUTOや。幼稚園から一緒やったブッチャーとミッチュンが中一の時、同級生のヒトシとヤンマンを誘って始まった。ブッチャーはZOUOのチェリーさんの実弟で、地元の兄貴分やったチェリーさんの影響で音楽も始めたんやけど、何と中二でZOUO、メマイと一緒にマントヒヒデビューするんや。そこからはもう、マントヒヒの他にスタジオワン、スタジオあひるの三つを、ZOUO軍団みたいなのがあって、ライブを見に行ったりして、ラフィン、モホークス、メマイ等、そのバンドを見に行くのを、付いて廻ってる時に、『なんや、お前等、こんなガキやのにやってんのか?』みたいな感じで、上の人等に引っ張ってもらって、色々出演させてもらうようになったんや。

ハードコア不法集会についてもチェリーさんが中学生にやらしたらオモロイんちゃうかいうことで抜擢してスタジオ246に入るんやけど、『曲をどうしようか?』ってなって、皆でアイデアを持ち寄って、せーのドンで作ったんや。一発録りで、録って曲はできた。でも歌詞がない。で、いつもコーラ飲んでたんで、『これでいこうぜ!』みたいな感じでできたんが『アイ・ライク・コーラ』。のちのち、関西ハードコアシーンの歴史に残る名曲は案外適当なノリでできたんや。

その後、ヤンマンとヒトシが抜けて、ホイップブレインズからカツミくん、SOBからTUNKが入る。後TOMさんな。OUTOのフライヤーやジャケットのイラスト描いてた第五のOUTOや。男やと誤解してる人多いみたいやけど女の人やからな。
パンク/ハードコア自体をもはやアートの域に昇華したと言ってもいいくらい功績のある人や。
SEPTIC DEATHやMETALLICAのジャケアートのPUSHEAD的立ち位置に近かったんやないやろか?


こんな感じで東京ツアー始まる頃にはメンバーは固定されるんや。

SOB、OUTOの話が出たんで広島との関係をちょっと。愚鈍のボーカルだったHAPPYは山口県在住で、広島まで練習に通ってた。HAPPYが愚鈍へ加入する前にやってたバンドのギターがTUNK(SOB~OUTO)で、その関係から広島と大阪の縁が生まれた。このバンドのベースは、後にわずかな期間だがGHOULへ参加してるんや。

当時の広島シーンは、愚鈍を筆頭にCHICKEN BOWELS、K.P.S、GOOGOLPLEXなど個性的なバンドが揃っとった。特にCHICKEN BOWELSは高校生ながら抜群のセンスとテクニックを誇ってて、関西や東京のバンドから声がかかっており後にギターのMOTSUが大阪へ移住してOUTO〜R.F.Dに、ドラムのMUKAIはDEATH SIDEへ加入することになるんや。

後、広島との繋がりでおもろいんはGASのナルミさんはナルミ&ミスターズでコンチネンタルキッズが主催してたBEAT CRAZYにも参加してるんやけど、旦那さんのTetsuさんは元GHOULで、その後BLANKEY JET CITY結成当時のDr.でもあんねん。さらにマサミさんのBAD LOTSはストロベリージーンに形を変えるんやけどそこのGt.が安倍太、ミッシェルガンエレファントや。マサミさんと甲本ヒロトの関係は有名やけど、そのブルーハーツ~ハイロウズも含めて、90年代にフェスで主役張るようになる三つのバンドは全部GHOULが絡んでるんや・・・・・《つづく》

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