関西ハードコアの歴史其の四

マントヒヒといえばあとはZOUOやな。元々は住之江の加賀屋公園でスケボーやってる集団やったんやが、ブームも去ってパークも潰れてリーダーのチェリーさんがバンドでも組もかってことで後輩のデバソ(Gt.)、沖野(Bs.)、BUNBUN(Dr.)を誘ったのが始まりや。当時チェリーさんらはナシの追っかけみたいに毎回ライブに通いつめてたんやけど、暴れたりいらんことばっかりやってたから、他のバンドにアホって言われとった。で、『あのアホらバンドやってへんのか?』ってなって、いきなりマントヒヒで初ライブ決定、まだ楽器持って一ヶ月くらいでの話や。

初ライブん時から楽屋で飲んだくれとったから、態度デカく見えたのか分からんけど、オフマスク00の秋井くんが『今日、僕ら4回目なんです。よろしくお願いします』って挨拶に来たらしいんやけど

そうか!

俺らファーストライブや! って言うて!

OUTOが中学生でデビューしたいうんが話題になるけどZOUOもファーストEPの時の写真、全然見えんけどチェリーさん以外の三人は高1やったんや。当然年長の関東勢と演る時は技術の差は歴然やってんけど、それを感じさせへん勢いがあったな。

チェリーさんは、カネテツの広告に出はったんで
結構関西の人は記憶にあると思う。
当時広告代理店のサラリーマンやった中島らもさんが梅田の246スタジオで見つけて採用したという経緯やねんけど、らもさんとカネテツの現社長(当時は常務かな?)が灘中高時代の友人やったからできた企画やろなぁ!
ちなみに246スタジオいうのんは梅田の東通り商店街にあってバンドやっとる人間やったらよう知ってると思うけど円広志さん経営のスタジオや!
当時のパンクスはようここで練習しておった!
んで、AAレコードのレコーディングは本町のスタジオEVEが多かったように思う。
設備がととのっておってインディーズの人間に諜報されたんちゃうかな?

そうそうS.O.Bの名付け親もチェリーさんや。住吉大社の祭りでトッツアンらのグループと出会うんやけど、当時はヤンキーは多いけどパンクスはまだまだ珍しい時代や、そやから出会ったらすぐ打ち解けとった。PUNKの子らは、遊ぶ所が無かったからね。やっぱり、ヤンキーとかにイジメられるし。あの時代にPUNKなんかやってたらキチガイやからね笑。溜まり場っていうんが、梅田やったらどこ、ミナミやったらどこ、っていう感じで決まっとったんや。チェリーさんは若い子の面倒見るんがアレやからそういうのトッツアンに任せてて、お母さんって呼ばれてる女の子と二人で男の子、女の子の面倒見てたんやけど、それでついたんが『鈴木お父さんバンド』。略してS.O.Bや・・・・・《つづく》

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