関西ハードコアの歴史其の七

エッグプラントといえばやっぱりSOBやろな。エッグ開店直後くらいにワーミーでラリー(ex MOBS)さんとOiやってたトッツアン(Vo.)が所謂ツレで始めたんや、メンバーはタンク(Bs.)、キン(Ds.)、カス(Gt.)や。
タンクはその後OUTOに入ってもた。
ほんでV.A.『Last Punk Osaka』が出たあたりで、セキ(Gt. ex BONES)、ナオト(Bs.※新谷がおったバンドで多分ex BRUTUS)、ヤスエ(Dr. ex SELTIC FROST)が入ったと思う。

ナオトくんは元々BRUTUSを後にダンマカに行くワッティー、ミンミン、後のCRACKER JACKSのスネ夫くんって人とやってたんやけど、カツミくんとGREEDを始めるんや。ドラムがZOUOのブンブンさんでワッティーと同じ関目の高校に通ってた。当時阪急ファイブの中に明日の箱ってセディショナリーズなんかを扱ってる店があったんやけど、そこはパンクスの溜まり場の一つで、ナオトくんとトッツアンとは顔見知りやったんや。

カツミくんはこれは毎度の事なんやけど、新しいこと始めたくなってGREED辞めよ言い出して、たまたまその時トッツアンのSOBもメンバー全員抜けたいうことで、ナオト君のとこに話が来たんや。トッツアンが京都にええギターとドラム知ってる言うたんがBONES解散してSELTIC FROSTやってたセキ君とヤスエ君やった。(ちなみにSELTIC FROSTでベースやってたイワちゃんはSOBの運転手を経てBRAIN DEATHに加入する)SOBはメンバーも定まってないのに鹿鳴館でのライブ決まってて、それがセルフィッシュ主催の消毒GIG全日本ハードコアパンク選抜大会やったんや。

SOBは音楽だけでなくファッションでも先鋭的やった。日本のハードコア界にドクターマーチンの14ホールを持ち込んだんがZOUOなら、短パンにVANSを持ち込んだんはSOBやった。これはヤスエくんに依るとこが大きくて、当時京都でパンクのレコードいうたら十字屋か詩の小路のユリナレコード位しかなかった時代に独自に海外のハードコアのレコードを買いつけてくるクボイズミって人がおったんや。

クボイズミさんは日本のバンドもピックアップして海外に紹介したりしてて、EP一枚500円位で売ってくれてたんや。五枚買うとステッカーがついてきて十枚買うとポスターがついてくる。そんな中で『 HARDCOREは、もう革ジャンやマーチンじゃない!』ってことを聞いて衝撃を受けるんや。周りはディスチャージやデッドケネディーズを聴いてた頃ヤスエくんは、MINOR THREATや7 SECONDSをやったり、あとはOFFENDERSっていうやたらと速くて複雑なバンドがあって、それをコピーしたりとかしてたんやけどそれらは確かに短パンにスニーカーやった。そこからSOBのスタイルは確立されたんや・・・・・《つづく》

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