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【ネタバレ注意】『君たちはどう生きるか』と荘子と感想

【ネタバレ注意!!】
観てない人は引き返すべし。
観てからまた戻ってきてちょ。
どう感じたか、語り合おうぞ。







荘子的世界観
皆さんは『君たちはどう生きるか』を観て何を感じたでしょうか?私は観ながら『荘子』が思い起こされました。
荘子とは古代中国の思想家であり、その考えが書かれた本の名前です。『荘子』には例え話や寓話を使って、自然に従って生きることを説きます。貴賤の区別のような社会的な区別や生と死といった区別も含めて、全ての区別は表面的なことであって、大きな自然の一部であるとしました。

『君たちは〜』の主人公の名前は眞の人と書いてマヒトといいます。『荘子』において究極的に目指す、絶対的自由に遊ぶ人のことを真人と呼びます。主人公の少年が眞の人と書いてマヒトと名付けられているところから『荘子』が思い浮かびました。

荘子の説く真人は、人間の勝手な区別を超え、生死や老若などの全ての運命を肯定し受け入れ、自由な人として何にも囚われずに生きる人です。主人公の眞人は、苦しい現実や醜い自分をありのままに受け入れて前へ進みます。大叔父のように知識や論理を積み重ねて世界を変えようとするのではなく、清濁や貴賤や美醜や生死の区別を超えてあるがままの現実を受け入れ生きようとしています。
主人公の眞人がラストで辿り着く世界観も、『荘子』の全てを区別なく受け入れるという東洋的な世界観に近いのではないでしょうか?
大好きな母を失ったことも、戦争が起きていることも、母にそっくりの新しい母が身ごもっていることも、ばあや達が詮索好きで下世話なことも、自分がずる賢く悪いところがあることも、塔の冒険から帰った今は、人生の綺麗な部分も汚い部分も全て丸っと受け入れて前へ進んでいこうという話のように思います。

『荘子I』森三樹三郎 訳、中公クラシックス

荘子を思い起こさせる要素
他にも『荘子』を思い起こさせる描写があります。劇中の眞人は、新しい家に着き、苦悩の中で眠りに落ちて不思議な夢を観ます。この夢を観るシーン以降、不思議なことが次々と起こります。夢と現実の境界線はないという逸話が『荘子』にはあり、胡蝶の夢という話です。荘子が蝶になって花々の間を飛び回る夢を観て、自分が蝶になったのか、蝶が自分になったのか分かりようがないという話です。自分なのか自分でないのかといった区別に囚われては真の人にはならないという話です。この眠りから覚めた後、眞人はアオサギを追って、塔への冒険に引き摺り込まれていきます。塔の中は、この時間や空間を超越しており、アニメそのものの世界であり、どんなことも起きる場所でした。

また、『荘子』の冒頭では、魚と鳥の寓話が象徴的に書かれていますが、『君たちは〜』でも鳥と魚のイメージが繰り返し出てきます。『荘子』の冒頭の話では、山のように大きな魚が山のように大きな鳥に変身して何千里も飛んでいき、世界を見下ろすと青一色に見えるという話が出てきます。山のように大きな鳥とは、ありとあらゆる常識的な区別にとらわれない自由な存在の象徴です。

『君たちは〜』の中では、アオサギは池の魚を丸呑みにします。死者の世界の海では、若返ったキリコさんが大きな魚を釣り上げ、ナイフで切り分け食べます。死の島の金色の門にも魚のモチーフは使われていました。そして、映画のラストシームからクレジットに変わる瞬間に、真っ青な画面が映し出されます。これは、荘子の冒頭に書かれている、大きな鳥が見た一面が真っ青な世界を思い起こさせます。

西洋的で理性的な世界観の要素
主人公が引っ越してきた屋敷は、大正や昭和初期の雰囲気を纏った西洋的なデザインに覆われています。

塔の中は西洋的な建築で、地下の死者の世界でも画家ベックリンの描いた『死の島』にそっくりの島。ダンテの『神曲』に出てくるような地獄の門で閉ざされている墓所。若いキリコの小屋はノアの方舟のような船の形でしたし、キリスト達の弟子は漁師でした。

アルノルト・ベックリン『死の島』


アオサギと眞人の「アオサギが『アオサギは嘘しかつかない』と言うのは本当か嘘か?」という古代ギリシャ時代から議論される嘘つきのパラドクスは、西洋哲学的な問いの立て方です。

西洋的な書物から学んだと思われる膨大な知識の頂点に賢者のような大叔父がいること。

悪意のない積み木を厳選し、適切に積み上げれば世界が争いのない世界になると信じる世界観は、西洋的な神学や哲学において論理や思考を積み重ねた先に真実があるという考え方を示しているようです。

天上には天国のような理想の世界が広がり、下には労働や争いの罪の世界が広がっている構造は、キリスト教の天国と地上と地獄にも似ているし、理性的な支配層が理性的でない大衆を支配する構造を示唆しています。

大叔父が積み上げた積み木が結局軍隊や暴力で壊されてしまったことは、理性的な規律や理想を積み重ねてきたにも関わらず、ヨーロッパでも戦争が起きている現実が思い起こされます。

塔の中の大叔父をとりまく世界は、西洋的な世界観で描いているようです。

クリーンな理性的世界の否定
主人公は、理想的な構造物の下層ではインコたちが腹を空かせ、荒み、人を食い物にして生きている世界があることを知りました。しかも、悪意を排除した理性的なものを組み立てれば理想の世界ができるとしても、自分も悪意のある汚れた世界の一部であることを眞人は知っています。だから、悪意ある人間を打ち捨てるような世界を受け継ぐのは嫌だと拒否する。

これは漫画版のナウシカのラストでも、ナウシカが同じ決断をしている。クリーンな浄化された人間なんて人間じゃないという決意。

全ての作品に『君たちは』は繋がっているのですが、骨子の部分は漫画版ナウシカと同じだと思います。多面的な母との確執、戦争と民と自然と理性と、汚れながらも生きていく決意。

死者の世界の輪廻
地下の死者の世界は、全てが西洋的世界であるとも言い難いです。若いキリコの着ている着物の車輪柄は、仏教的な輪廻転生を示唆しているようですし、キリコは業を背負いながらも死者の輪廻転生を見守るために死者の世界に留まっているようです。

ワラワラ達が月に向かって上昇していく様は遺伝子の螺旋のようであります。満月は密教では悟りを求める心の象徴であるし、子宮口と読んで生まれゆく運命ととってもいいかもしれません。そもそもワラワラ達は、Kawaii。

眞人が眠る時に守っている婆や達の人形は、土着の何かの神のようでもあります。

死者の世界は塔の中でありながら、文化や思想によって操作できない大自然の摂理の様なもので動いているようです。

多次元な世界
『ハウル』では、時間軸や場所があべこべになる設定がありましたが、『君たちは』でもこの考え方は踏襲されています。時間や空間は一方向に向かうのではなく、グニャグニャと歪み、交差しあっています。沢山のドアがあり、色々な世界と繋がっていることが分かります。死んだはずの母が、少女の姿でヒミとして出てきたり、ドアを開ければ現世に帰れたり。

整合性や意味の一貫性も塔の中では不変ではありません。状況や関係性が変わるとものの性質も変容していきます。婆やのキリコさんは、現世では意地悪な煙草狂いの下世話なお婆さんとして描かれていますが、死者の世界では強く美しい漁師として描かれています。キリコさんの変容は、一つのキャラクターであっても一つのアイデンティティに固定されていないことを示しています。一つのキャラクターに複数の人のイメージが同時に存在しうるし、一人の人間の中には全然違った人間が同時に存在しうるという揺らぎを描いています。

引用という複数の空間に同時に存在する魔法
複数の時空にまたがって存在する塔というのは、ハウルの動く城を思い出されます。ハウルの動く城では、日常の言葉や魔力を持っていると思っていなかった詩か呪文が魔法の力を持っているような世界でしたが、『君たちは』では既存の別の作品を引用することで豊かなイメージを湧き起こし、世界を形作っています。

そもそもの原作(?)の『君たちはどう生きるか』は全く別のストーリーですが、「若者の退っ引きならない苦悩」をテーマにした作品だと言うことがタイトルだけで分かります。

眞人が机から落とした『君たちはどう生きるか』の本の挿絵である、ミレーかゴッホの『種を蒔く人』は、熱い思いや純粋さを持って働き前進すれば、たとえ芽が出なくても良いんだよととか何とか『種を蒔く人』に抱いているそれぞれのイメージを思い起こさせるでしょう。

地下の世界でたどり着いた糸杉の島は、ベックリンの『死の島』。重苦しい死の雰囲気や、森を信仰するゲルマン文化や、それを取り込んだ石の文化であるキリスト教文化やなんやらを想起させます。

過去のジブリ作品からの引用も沢山ありました。埋められた塔に鳥の羽を追ってゆくシーンは、トトロのメイちゃんのシーンが思い浮かびます。アオサギの胸の模様はトトロに似ています。人ならざる世界へ誘われている暗示でしょうか。

塔の中の広間は、カリオストロのクラリスの寝室。ヒーローがヒロインを助けに来たけれど、地下に落とされる未来。どこかに夏子さんは無事に囚われている様な予感。

塔の中の異次元ドアの様に、『君たちはどう生きるか』は、沢山の作品に繋がっています。

特に、一つ一つの意味や関係性を固定しないまま話は進んでいくので、受け取り手やシーンによって豊かに読み取ることができます。

行きて帰りし物語
大叔父の世界を継承することを拒否したことにより、大叔父の世界は崩壊してしまいます。一度、世界が崩壊して再生すると言うのは、駿映画では繰り返し述べられています。呪いや業→苦悩→がむしゃらに立ち向かう→上手くいかず全てが崩壊するが→生きたいと望み、なぜか再生して人生は続いていきます。

ナウシカ、魔女の宅急便、トトロ、ルパン、もののけ姫、千と千尋、ハウル、ぽにょ等。

ジブリ作品に限らず、沢山のお話が行きて帰りし物語を踏襲しています。ダンテの『神曲』や、イザナギが黄泉の国に行って帰ってくる話、指輪物語、根源的なストーリーの構造である行きて帰し物語が踏襲されています。

また、眞人というか駿さんが取り返そうとしてきたのは真実の女性なんだなぁと思います。体の弱い母、失った母、もう愛してくれない母、苦しめる母、強がっている母、元気で明るい母、純粋無垢な母。母の多面性を表しているし、美しく、守りたい、愛してほしい、愛おしいけど手に入らない存在でもあるようです。

再び産まれる
地下の世界に落ちていく時、そこは水に満たされ羊水の中の様です。ヒミがワープする時は臓器の中を移動するように描かれていて、母の胎内を思わせます。卵管を遡ることを示しているかもしれません。夏子の産屋は子宮や受精卵を思わせますし、産屋から結界によって排除される主人公は、受精できなかった精子の様でもあります。時の回廊に繋がる石のトンネルは、産道を思わせます。

ちょっと疲れてきました。他の要素も面白いので、断片的に書いておこうと思う。

アオサギ
アオサギには知恵がある。魔法の力がある。駿さんにとっての知恵や魔法はアニメなどの創作物の力と考えられる。ものを飛ばしたり、走らせたり、壊したり。

塔の道先案内をするアオサギは、道化でもある。愚かであり、かつ知恵がある。道化は二項対立の外側の存在でもある。賤であり貴である。愚かであり賢くある。とらわれない知恵を持っていると言う点で、『荘子』の大きな鳥に少し近い性質を持つ存在として描かれている。

若いものを惑わしてファンタジーの世界に誘い込むのは、自分のことも言っているし、口うるさいが付き添ってくれていた鈴木敏夫氏のことも指しているだろうし、先人達のことも含まれているだろう。悪魔であり道化であり道先案内人であり友である。アニメの化身と言っても良い。

ペリカン
死の島に群れるペリカンは人を食らう。現世に生まれようとするワラワラを食らって生きている。瀕死の老いたペリカンが語るには、昔は高く飛べたけれど今は飛べないものすらいるとのこと。どこへも行けず、仕方がないと語る。
形骸化する宗教従事者を描いているのか?キリスト教では、キリストの象徴として描かれることもあるペリカン。サギもペリカン科の生き物でもある。昔は人々に希望を与えて空高く飛んでいたが、腐敗し飛べずに人の魂を食い物にして生き延びているという指摘か。

インコ
もののけ姫の猩猩(しょうじょう)のようなインコ。猩猩もそうだが、野生で無垢だった生き物が言葉を得て、貪り食う生き物となっている。大きな鼻の穴は、家畜である豚のイメージも重ねているか。鳥は、空を飛ぶ高貴で賢い生き物であったはずなのに、言葉や知恵のようなものを得たことによって、塔の下層を支える労働力となっている。数が増えて貧しそうだ。軍事力も持ち、大叔父の作った世界を破壊する最後の一押しになっている。大叔父と何らかの契約をしているようだ。

ばあや達
下世話な彼女たちのことを、あまり良くは思っていなかったが、死者の世界において眞人を守護していることを知る。
血の繋がらない保護者からの庇護というのは、過去の作品でも何度も描かれた。魔女の宅急便では、知らない街の人々。もののけ姫ではタタラ場の人たち。ハウルではハウルの家に集まったバラバラな人たち。

武器
弓矢。破魔矢のように魔を祓う。
眞人を探して夏子が空に放った矢は、嚆矢の様でもあり、開戦の合図のようにも思える。荘子には、親孝行や後世への提言などの素晴らしい行いですら、恐ろしい悪のきっかけとなるという例え話がある。

手製の弓矢
肥後守で作る手製の武器は、なんか知らないけどワクワクする。少しずつ調整していって飛ぶ様になっていく過程もワクワクする。森で遊んだ個人的な身体感覚を呼び起こす。

十字の手裏剣の様なベッドカバー。十字架の様でもあり、手裏剣の様でもあり、花の様でもある。

キリコの車輪柄の着物は、投擲し邪を祓うチャクラムとも読める。キリコの鞭のようなものは、苦行や贖罪のようなイメージもあるが、読み取りすぎな気もする。

インコ達が持っているのは武骨な西洋的な武器。大叔父の世界の均衡は、武力を従えたインコの大王が剣で叩き壊した。

戦闘機のキャノピー。父が家に戦闘機のキャノピーを持って帰ってくるが、戦争の道具でありながら美しいもの。眞人が惹かれている戦闘機の美しさは「風立ちぬ」に繋がっていく。

炎のイメージ
母を焼く怖く恐ろしいものとして冒頭に出てくるが、塔の中で出会った少女時代の母は炎と友だちだった。煮炊きをし、ワラワラ達を守る火。

生きている描写
遠くで火事が起きた胸騒ぎ、大事な人を心配する胸騒ぎ、階段を駆け上り、雑踏の中を必死で駆け抜け、炎が燃え盛る描写は自分の鼓動や息苦しさや体中にめぐる血液、動転する脳みそを自分が体験するように生々しく感じる作画だった。冒頭の火事のシーンの生々しさは凄かった。

鳥の糞まみれの世界
鳥の糞まみれだったな。この糞が描きたくて作ったんじゃないかと思うくらい。生き物は、命を食って、糞をして、今日も生きてる。これ以上に愛おしいことなんてないよ。

安易な説明をしない
作品の中に込められた超個人的な色々が滲み出し、監督の言葉にできない何かしこりの様なものの存在を感じた。このしこりが創作の原動力の一つなんだろうなと思った。

物語に織り込まれる苦悩や痛みや言葉では語れない愛おしさが、胸に込み上げるものがあった。目頭が熱くなる作品だった。自分の祖父や祖母のことも思い出されて、なんで戦前生まれの人は、こんなにも気持ちが元気なんだろう?と思ったり。

眞人の、困ったような反抗しているような照れているような眼差しは駿監督そのものであった。人生の中の苦悩や葛藤や呪詛のように苦しめられたことの痛みを感じたし、暗闇の中でもがむしゃらに前進する中で一つ一つと見えていく光もあり、正直な作品だと思った。

とにかく、『君たちはどう生きるか』は安易な説明はせず、2時間にこれでもかと織り込んだ凄さよ。痛快な冒険活劇でいて、根源的な問いを一つの形にしていて感服です。とても楽しく観られました。象徴的なイメージや組み立てに組み込まれている哲学とか思想は、他にもたくさんあって書ききれません。こういう風に組み立てていったのかな?というのも、あらゆる所に痕跡があって書ききれません。でも、疲れたのでここまで。

『君たちはどう生きるか』は、言語や整合性を超えた混沌を扱おうとしている作品です。正直、言葉で映画について語ることによって作品の意図を殺してしまうが、今感じた事を書き留めておきたいので記しました。ごめん。

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