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<無常>と「無我」の関係とは❓ 『ブッダが説いた幸せな生き方』⑤
前回は『ブッダが説いた幸せな生き方』(岩波新書)を読みながら「無常」を取り上げましたが、
この「無常」について考えると、どうしても「無我」というものについても言及せざるを得ません。
著者の今枝由郎氏は、
「この無常というものごとの本質は、当然のこととして「私」「我」という概念にも当てはまります」
と述べていますが、一体どういうことでしょうか❓
この「無我」については以前に詳しく述べたことがありましたが、
「無我」というと、どうしても瞑想や座禅の最中に「我」や「自我」というものを無くさなければならないと考えてしまいがちになります。
しかし実際にマインドフルネス瞑想法などを実践してみると分かることですが、たとえ「我」を無くそうと試みたところで、「我」を無くすことなどそもそも出来ないのです。
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ではブッダは「無我」について、どのようなことを説こうとしているのでしょうか?
このことに関しては、今枝氏が説明されているように、
「ブッダが主張したのは「我」がないということではなく、「我」ではないということ」
なのです。
実は「無我」と訳されているパーリ語の「アナッタ」は、「無我」というより「非我」(不変であるわれにはあらず)のほうが適切なのです。
このあたりのことは「無我」についての以前の記事でも述べましたが、ブッダがあえて「無我」の教えを説いた理由は、当時、インドのバラモン教的考えにおいては「アートマン」(我)と「ブラフマン」(梵 宇宙の根本原理)の二つが、変わることのない絶対的な実体として存在するとされていたからです。
しかし仏教的世界観では、けっして変化しないものはないため(無常)、いつまでも変わることのない「我」というのも存在しません。
つまり「無我」とは、変化しない「我」というものは無い、すなわち「我」は常に変化している、ということなのです。
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無常であるのは「我」だけではなく、世界すなわち私たちが通常経験する領域では、すべてがそうです。ものごとはその本質において、たえず移ろい、変化しています。ゴンブリッジ教授は、「世界において、不変の性質を持つものは何も無い」あるいは、「我々の通常の経験において、決して変化しないものは何も無い」と述べ、「プロセス」ということばを用いていますが、まさに的確な表現です。
ブッダが「無我」を説いたのは、哲学的な認識論・存在論としてではありません。ブッダの関心は人間の幸せであり、ブッダはたえずこの観点から話しています。人間に「我」「私」という考えが生まれると、必然的に所有という欲望が生じます。そして私有物を持つようになると、人間にはそれに対する執着が生まれます。この執着こそが人間のさまざまな苦しみの主な原因の一つ、すなわち幸せへの主たる障害です。ブッダが指摘したのは、「我」という誤った認識から生まれる執着の放棄・消滅の必要性なのです。
ただし注意していただきたいのは、今枝氏が述べるように、ブッダは継続的に同一である「私」「我」を、「相対的真理のレベルで便宜上認めていたことは確か」であるという点です。
というのは、当時のインド人も、私たち現代人も、いわゆる「アイデンティティ」があるという前提で日常生活を営んでおり、そうでなければ社会生活が成り立たないからです。
……次回へと続きます。
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