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「気づき」は誰もがブッダを目指すためにとっても大切。

いまの「呼吸」を観察すること以外で、誰もがブッダを目指すために大切なことは「気づき」であるように思います。

しかしここでいう「気づき」とは、英語でいう「アウェアネス」というよりも、先述した「サティ」や「マインドフルネス」のことを意味します。


この「気づき」について、ヴェトナムの禅僧であるティク・ナット・ハン師は、『ブッダの〈気づき〉の瞑想』(山端法玄、島田啓介 訳)のなかで、

「〈気づき〉とは、目覚めていること、深く見つめること」

であると述べています。


また呼吸についての気づきに関して、『四念処経』の、

 彼は森へ行く、そして木の根元や空き小屋に脚を組んで座り、背筋をまっすぐに保ち、〈気づき〉にそなえた心をその場に確立する。

 そして、息を吸うとき息を吸っていることに気づき、息を吐くとき息を吐いていることに気づく。

という一節を取り上げ、

〈気づき〉の第一の確立は身体です。そこには呼吸、姿勢、身体の動き、身体の各部分、身体を構成する四つの要素、そして身体の分解などが含まれます。

と説明しています。


このあたりのことは『ブッダの〈気づき〉の瞑想』を実際に手に取ってみなければ理解することが少し難しいかもしれませんが、ティク・ナット・ハン師はさらに、

 最初の練習は、呼吸の十分な気づきです。息を吸いながら吸っていることに気づき、息を吐いているとき息を吐いていることに気づきます。こうして練習するうちに、呼吸は意識的なものになっていきます。単純な取り組みながらそこの効果ははかりしれません。

とし、

 よい結果を生みためには、気をそらさずひたすら呼吸に意識を注がなければなりません。たとえば吸う息に集中するときには、心を散漫にする思考に注意すること。「キッチンの明かりを消し忘れた」といった考えが浮かびあがったら、それは他の物事に心がそれているしるしで、呼吸と意識は離れています。それを避けるために、一回ごとの呼吸のはじめから終わりまで集中を途切れさせないでください。呼吸するときに息と心がひとつならば、私たち自身が呼吸そのものになります。これが「身体において身体に気づく」ということの真の意味です。

とも述べています。


つまり誰もがブッダを目指すために大事なのは、他のことに気をとられ注意力が散漫になり集中が途切れないように、日々、「息を吸うとき息を吸っていることに気づき、息を吐くとき息を吐いていることに気づく」という練習を心の修養として続けることなのです。


また「気づき」の対象は「呼吸」だけではありません。歩いている時や服を着る時、掃除をする時、食事をする時、料理をする時など、からだの動き・身体的活動全般に対しても、常に「気づき」を絶やさないようにする必要があります。

たとえば先述のワールポラ・ラーフラ師は、『ブッダが説いたこと』(今枝由郎 訳)のなかで、

「私たちの活動に関する気付きあるいは自覚に関してブッダが教えたことは、今の瞬間、今していることに生きることである」

「気付きあるいは自覚を発達させるのに、ことさら何かを行なう必要はなく、自分が行なうことに絶えず気を遣い、自覚するだけで十分である」

と述べています。


 身体的活動に関する心的修養の、重要で、実践的で、有益なもう一つのかたちは、公私を問わず、仕事中であるかどうかを問わず、日常生活ですること、話すことを十分に意識し注意することである。歩く、立つ、坐る、横たわる、眠る、身体を曲げる、伸ばす、周りを見る、服を着る、話す、沈黙する、食べる、飲む、トイレに行くなど、すべての行ないに対して、それをする瞬間にそれを意識することである。すなわち、今この時点で、今行なうことに集中する、ということである。これは、過去・未来を考えるべきではない、というのではない。その逆で、現在と今行なうことを関連させて、ふさわしいとき、ふさわしい場で、過去・未来のことを考えるべきである、ということである。

ワールポラ・ラーフラ『ブッダが説いたこと』 今枝由郎 訳 155-156頁


 私たちの活動に関する気付きあるいは自覚に関してブッダが教えたことは、今の瞬間、今していることに生きることである(これはまた、本質的にはこの教えに基づいた「禅」の教えでもある)。この瞑想法では、気付きあるいは自覚を発達させるのに、ことさら何かを行なう必要はなく、自分が行なうことに絶えず気を遣い、自覚するだけで十分である。「瞑想」に、あなたの貴重な時間を一瞬たりとも費やす必要はない。あなたは、自分の日常生活におけるあらゆる行ないに関して、昼夜たえず気付きあるいは自覚を修養しなければならない。

ワールポラ・ラーフラ『ブッダが説いたこと』 今枝由郎 訳 158-159頁



〈気づき〉は仏教瞑想の核心です。〈気づき〉の瞑想は坐って行なうだけではなく、日常生活のなかでいつでも実践することができます。自らの身体が〈気づき〉に満たされていれば、心を治められるようになり、体と心はひとつになります。

ティク・ナット・ハン『ブッダの〈気づき〉の瞑想』 山端法玄、島田啓介 訳 238-239頁



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