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ニルヴァーナ(涅槃)とは何なのか❓ 『ブッダが説いた幸せな生き方』⑦

前回は『ブッダが説いた幸せな生き方』(岩波新書)を読みながら、苦しみの根源的な要因といえる「三毒」について述べました。


今回はいわゆる涅槃、「ニルヴァーナ」についてです。

20代や30代の頃の私自身もそうでしたが、普段から仏教や瞑想に馴染みがなければ、「ニルヴァーナ」(パーリ語でニッバーナ、漢訳で涅槃)と聞くと、日常の外に存在する、どこか非現実的で高尚な世界観のような印象を受けます。

しかし今枝由郎氏のブッダが説いた幸せな生き方を読んでみると、決してそうではないことがわかってきます。


それでは「ニルヴァーナ」とは一体なんでしょうか?

まず、この「ニルヴァーナ」について今枝氏が、「ニルヴァーナは、二元論的、相対的なことばの次元を超えたもので、私たちの一般的な善悪、正邪、存在・非存在という概念を超えています」と述べていること、特に概念を超えているということが、ニルヴァーナとは何かを考えるうえでのポイントになってきます。

 ニルヴァーナは仏教の究極の目的、最高の境地で、この理念ほどことばで多く論じられてきたものはありません。にもかかわらず、というよりはあまりにもさまざまに論じられてきたがゆえに、むしろいっそう錯綜が深まったと言った方がいいでしょう。これほど理解されず、誤解されているのはまさに皮肉です。パーリ語ニッバーナの漢訳者たちは、このことばを意訳せず、涅槃という音写で通しました。その結果、この音写からでは、原語であるパーリ語で何が意味されていたのかを論議・理解するすべがありませんでした。

今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』 136頁

 ニルヴァーナは、二元論的、相対的なことばの次元を超えたもので、私たちの一般的な善悪、正邪、存在・非存在という概念を超えています。論理と論証を超えたものである以上、いくらことばで論議を尽くしたところで、それは時間と労力の無駄にしかならず、本当の理解に至ることはできません。人間のことばは一般の人たちが日常生活で感覚器官と心で体験するものごとや考えを表すために考案され、使われるものです。しかしニルヴァーナのような絶対真理の体験といった超世俗的なことがらは、その類いには属しませんので、それを表現することばはありません。

今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』 137頁


また今枝氏は、「現在の我々に身近な一つの現象を例にあげますと、無重力の次元が当てはまるのではないでしょうか」とし、

重力がなく、浮遊したままでいられる無重力の次元(重力圏外)は、いまだかつて経験したことがありませんから、そこでの現象・経験を表すことばを持っていません。しかし、無重力の世界を体験した数少ない宇宙飛行士たちは、それを重力下の経験しかない人たちのことばで伝えざるをえません。話を聞いただけで理解できるということがらではなく、本当にわかるためには、やはり自ら無重力という異次元を体験してみるしかありません。

と述べています。

さらに氏は、ニルヴァーナは言語学的には、「「消える、燃え尽きる」といった意味」であり、「燃えている火が薪がなくなったり、燃料がなくなったときに消えてしまう状況を指します」としています。

このことに加えて、

ニルヴァーナということばは、解脱(モークシャまたはムクティ)と同義で、インドのすべての宗教は、ニルヴァーナは完全な静寂、自由、最高の幸福の状態であるだけでなく、サムサーラからの解放であると主張しています。ですから、ニルヴァーナは仏教独自のことばではありませんが、仏教でもっとも用いられることばです。

とも述べています。

しかしながら、

ニルヴァーナを何らかのことばで表し、伝えようとすると、日常生活の普通の経験しかない人たちには、「渇望の消滅」「欲望の滅亡」といった否定的なことばで表すほかなくなります。

とも述べており、パーリ語の仏典中のニッバーナの定義をいくつか見てみると、

ほとんどの場合否定的なことばで表現されることが多いので、ややもするとニルヴァーナ自体が否定的なものであり、自己否定だと誤解されます。

としています。また、このニルヴァーナ(涅槃)を「虚無」や「死」であると誤解している日本人は多いと言います。

しかしながら、今枝氏が『ブッダが説いた幸せな生き方』のなかで以下のように述べていることは傾聴に値します。

しかし、仏教ではそもそも否定すべき自己そのものがない(無我)のですから、ニルヴァーナはけっして自己否定ではありません。否定すべきものがあるとすれば、それは自己に関する誤った概念、幻覚です。

 ニルヴァーナは、この先で説明する八正道を私たちが根気よく熱心に歩み、自らを修養し、浄化し、必要な精神的発達を遂げれば、現世においてある日、自らの内に体現できるものであって、ことばで論ずることがらではありません。それはことばを超えたもので、「賢者が自らの内に体現すべきもの」です。

今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』 139頁


 多くの宗教においては、最高善は死後にしか到達できません。しかし仏教の究極目的であるニルヴァーナは、今のこの生で実現できることができ、到達するのに死を待つ必要はありません。

 ブッダの在世中には、ニルヴァーナは修行によって今世で達成する目標でした。最初の仏弟子となったコンダンニャをはじめ、数多くの弟子たちはニルヴァーナを現世で体験した人たちでした。ニルヴァーナは生きている人が、妄執を捨て、執着することなく、煩悩が消滅した静寂で平安な境地です。ブッダが重視したのは、過去でも未来でもなく、この世、今をいかに生きるかだけでした。

今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』 140頁


特に重要なのは、

ニルヴァーナは生きている人が、妄執を捨て、執着することなく、煩悩が消滅した静寂で平安な境地です。ブッダが重視したのは、過去でも未来でもなく、この世、今をいかに生きるかだけでした。

と述べられている点です。

すなわち、(もちろん簡単なことではありませんが)ニルヴァーナは生きている間に実現できるのであり、ニルヴァーナをいわゆるあの世や彼岸、もしくは「天国」と同一視したり、「死」によって到達できると勘違いしたりしていることは、根本的な誤りなのだと言えるのです。


 しかし時の経過とともにこの認識は大きく変わりました。ニルヴァーナは高尚すぎて、とてもこの世で実現できるものではなく、今世で善業を積み、転生して来世でも善業を積み続けて、それを何度も何度も繰り返し初めて到達可能なものと考えられるようになりました。さらには、ニルヴァーナは最終目的で、そのために修行・努力をするのですが、普通の仏教徒にはとうてい実現できない、現実味のないはるかな理念になってしまいました。

今枝由郎『ブッダが説いた幸せな生き方』 140-141頁



……次回へと続きます。

お忙しい中ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます😊


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