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やり場のない思い

コロナ禍の世界。以前は当たり前だった事が、当たり前でなくなり、離れ離れでも心で繋がっていれば、いっとき耐え忍べば、それは当たり前に過ぎ去り、元の世界が戻ってきて、いつか思い出話になると、どこかで思っていた風景は、一年たち、二年目に差し掛かる頃、薄ぼんやりと近眼の世界のように、焦点が合わなくなるように、ボヤけていきました。

元の世界は戻って来るのではなく、新しい世界が音もなく始まっていた。新しい常識と新しい価値観と新しい日常と生活が、いつのまにか肌に馴染んで、元の世界の風景がどんなものだったのか、だんだんと脳裏に浮かばなくなり、その温度や匂い感触も薄れて行っている事に、ふと、気づきます。

日常会話では人に伝えられない感情を、自分だけの言葉で綴ってみたり、言葉にならない思いや、苦しみ、やり場のない思いを、絵や歌や音、舞踊、映像、立体、ドラマ、脚本、映画、などなどなど、で吐き出して、共感を得る所でようやく昇華される、一つの自浄作用的な居場所が、『表現』というものであると、私は常日頃思って生きて来ました。

今、コロナ禍の世界で、たくさんの人達が、人にはうまく伝えられない複雑な思い、塵のように澱のように音もなく蓄積してゆくストレス、言葉にならない思いを、抱えていて、やり場のない思いが、そこここに渦巻いています。この世界を生きる全ての人の中にスクスクとフツフツと育っている渦巻く感情の塊は、本来ならその思いを共感する受け皿において、表現の種として育ち、花咲き、たくさんの人々の救いとなるはずです。

共通の苦難苦悩、共通の敵を前にして、生き物は身を寄せ合う本能があります。コロナ禍一年目初期は、その緊急事態に団結する思いが強かった印象があります。が、それも二年目になると、だんだんと緊急事態が日常になり、緊張状態に慣れて、思いは同じ方向を向き続けることが困難になり、だからと言って身動きは変わらず取れない、何かしなくてはいけないのに、何ができるのか分からない、それぞれの状況において、よりパーソナルな悩みが浮き彫りとなり、一丸となって何かを乗り越えるというより、個人個人がどう生き抜くかの禅問答の日々が日常生活の友となっていったように思います。

溜まってゆく澱のような思い、それを作品に昇華できれば、それは素晴らしい糧と呼べます。吐き出すその方法を知らなかったり、何かを伝え合う事について、今まで深く考えなくても当たり前にできていたコミュニケーションの場所を失って、吐きたいのに吐けない、出したいのに出ない、そんな消化不良を、今この世界は抱えているように感じます。

誹謗中傷。その嵐は、表現という形に昇華しきれない感情の渦が、弱みを見せた他人の隙に反応し、相手の非を大きく膨らませ、その膨らんだスペースに、処理しきれないストレスや感情、やり場のない思いを吐き出し、同じように吐き出している他人を見つけて共感し合う事で、昇華されるある種の歪んだ自浄作用の居場所、不特定多数の他人を巻き込んだ一方通行の集団カウンセリングになっているように思えます。

感受性豊かで、脳の動きが活発な人ほど、処理しきれない感情も多く、病みやすく、情報収集が活発であればあるほど、頭でっかちになり、身体とのバランスを崩して、さらに負のスパイラルで情報を集めようと脳がパニック状態になり、処理しなくてはならないものが増えていき、やがてパンクします。

ストレスや様々な原因で消化不良を起こした内臓の中では、排出したいたくさんのものが、次第に腐り、発酵し、有毒ガスがパンパンに充満し、自然の摂理でそれは少しずつ排出され、外界に毒を垂れ流しながら、いつしか身体中が病理化し、本格的に病んでいきます。

今、この世界を一人の人間の体内に置き換えて考えた時、癌化に向かっているように感じました。ガス抜きの場、つまり、アウトプット、つまり『やり場のない思い』の居場所を見つけて、感情の救済の必要があるように思います。心が癌化しないように。

末期的な世界で、宗教が流行るのは本能的に感情の救済を求めて起きる自然の流れです。世の中について、自分自身について思考すればするほど、どんどんと澱がたまっていき、処理しきれないので、思考停止する。思考停止は、それだけで救済となる場合があります。竜巻のような感情の渦を、頭から取り去って、からりと晴れた青空の元へ、静かなサンセットビーチへ、朝焼けの山の頂上へ、いざなってくれるものの存在は、ドロドロになった心を洗ってくれる、救い主です。多くの大きな集団を持つ宗教は、ゼロから自分の頭で考えた哲学ではなく、誰かの思考した哲学の歴史を受け入れる所からスタートします。思考停止が入門編となりがちです。勿論、自分の頭で考える宗派もあります。

コロナ禍の今、集団で癒しを求めるその先に、どんな思考と思考停止が待っているのか、どんな宗教が誕生するのか。その宗派のお祈りの言葉が、誹謗中傷でない事を、切に願います。

そして、やり場のない思いを、表現という形で、まずは自分自身の感情を救う手立てとして、何らか形で昇華したい、そして、それが誰かの受け皿に届き、誰かの救いとなれたら、と、その方法について毎日考えています。

癌を経験し、一度は死んだつもりでパンクするまで自分自身と向き合って、運良く生き残り日常を取り戻した今、からりと晴れた青空の元を散歩できる今、救われた体験をした今だからこそ、コロナ禍においての苦難について考えられる幸せを噛みしめています。

運命的に出会った新しい家族と共に。


にゃー

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