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生物は基本的に言い訳が通らない


発達障害の大半やHSPやMBTIやエニアグラムは一切言い訳にはならない。
言い訳として自助努力せず努力放棄する選択の自由があれば、言い訳としてそういう人を助けられない障害があるのですという自由も、私も何も努力出来ませんという自由も成立してしまう。
また何も食べられなくなるのが当然にもなる。

基本的に困っている点や望む人生をどうすれば?であって、僕は空気を読む事や人の気持ちを察する事が凄く苦手だったけど能動的に学んだら逆に得意にもなった。得意になっても使う使わないは別であるし、発達障害で苦手とする特徴が得意になるなら先天ではなく後天であり、僕の場合は主に意識が向かなかった事や心理的余裕が30過ぎまでずっと無かった。喫緊の課題に対応する為にN⇒Sのペルソナっぽくもある。喫緊の課題が解決したからS⇒Nに戻った説。

発達障害の大半は心因性だと思い、心因性の場合は情緒障害が症状的に似ている。発達障害も精神障害も人格障害もHSPも、育った家庭に何か問題があった率が高い。また逆に全く問題の無い家庭は存在しないとも思う。

洗脳、扇動、陽動などの心理操作は至るところに溢れている現代ですね。昔に比べてテレビもネットもありますし。
テレビや新聞も大手は戦後の影響や外資の影響が強いですね。


Later autobiographical reflections: "Were We Asleep at the Switch?

後の自伝的考察: 「私たちはスイッチのところで眠っていたのか?」

アイゼンバーグは「ミニ自伝」を執筆し、そのタイトルを「われわれはスイッチで眠っていたのか」と命名した。アイゼンバーグは、精神医学という学問分野で「心」から「身体」への切り替えが行われ、それが薬物の過剰使用につながったと示唆した。彼はまた、医学者たちが医療行為や一般大衆のための医療決定の根底にある退屈な科学に頭を悩ませている一方で、「お金」と金儲け主義者たちは、自分たちに深く影響する事柄がどのように行われるのかについて、事実上の決定を一般大衆のために下してきたと主張した。この見解では、専門的知識の新たな体系に対する経済的配慮の圧倒的な影響力が、多くの優秀で時宜を得た、心配りのできる現役科学者の専門的貢献を無にし、今後も無にし続けるかもしれない。

ドイツの週刊誌『Der Spiegel』の2012年の記事には、アイゼンベルクが亡くなる7カ月前の2009年に受けたインタビューが紹介されている。ADHDはでっち上げられた病気の典型例だ。ADHDの遺伝的素因は完全に過大評価されている。アイゼンバーグは、「薬」を処方する代わりに、精神科医は行動上の問題につながる心理社会的な理由があるかどうかを判断すべきだと述べた。


努力しない方が得するなら大抵の人は努力しない。
弱者特権、疾病利得、逆差別も増えている。
「おにぎり食べたい」で餓死してしまったような人は救われるべき。


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