![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/8327663/rectangle_large_type_2_630728f9c423e24a59643e4ad15385f4.jpg?width=1200)
"星の王子さま" を読んで
「いちばんたいせつなことは、目に見えない(本文より)」
先日、ふとこの本を読む機会が訪れました。この本を勧めてくれた人は、子供の頃から好きな本らしく、私も以前から気になっていました。
文体は丁寧であり同時にメルヘンチックで、メッセージ性が強いにも関わらず押し付けがましくなく、それどころか郷愁感の漂う心地よい感じです。
私たちは大人になるにつれ、お金や権力、数字などの目先ばかりの事柄にとらわれ、本当に大切なこと——それは子供の頃は当然のように知っていた大切なもの——を忘れてしまっていないだろうか? という強いメッセージ性を感じました。
星の王子さまが世界に一本だと思って大切に育てていたバラ。しかし旅の途上で沢山のバラの咲いた場所にたどり着き、無数にあるバラの一本だったことにひどく落胆します。
けれども気がつきます。無数にあるバラの中でも、自分と触れ合ったバラは特別だということに。
「きみのバラをかけがえのないものにしたのは、きみが、バラのために費やした時間だったのだ(本文より)」
誰かのために時間を費やせること、費やしてきたこと、それがかけがえのないものにしていくということ。私たちはそれをいつの間にか忘れてしまっています。利益やコストパフォーマンスばかりを追い求め、仕事で有利になる人間としか関わらなくなったり……。
私たちは一度、子供の頃の視点に戻ってみることが必要なのかもしれません。
「いちばんたいせつなことは、目に見えない(本文より)」
そう、時間をかけて大切に育んだ思い入れや友情、友愛、愛情。そういったものに限って目に見えないのです。大人になるにつれ、忘れていってしまうものなのです。
目にみえないもの——それは時間をかけて育んだなにものか——こそ、一番大切なものなのです。私たちはそれを胸に刻んで、今一度世界を、そしてなにより自分自身に問うときがきているのかもしれません。
「わたしにとって、いちばんたいせつなことは、なんですか?」
こう自分に問いかけるとき、子供の頃に戻ったような安心感を覚えます。
しかし同時に、ある種の虚無感を抱かずにはいられないのです。私は先ほど
"私たちは大人になるにつれ、お金や権力、数字などの目先ばかりの事柄にとらわれ、本当に大切なこと——それは子供の頃は当然のように知っていた大切なもの——を忘れてしまっていないだろうか?"
と書きました。
けれどもここまで書いてしまうと、私はもう一歩踏み込んで考えないわけにはいかないのです。
子供の頃は当然のように知っていた大切なものですらも、目先ばかりの事柄なのではないか、と。
人はいつしか死にます。何事にも終焉が訪れます。
私たちはふっと生まれてきて、何かを、そして誰かを愛し、それに時間を費やします。そして知らぬ間にふっと消えてしまうのです。それまでの時間も、愛も、何もかもなかったかのように。
命は、そしてその営みは、儚いからこそ美しいと言う人もいるでしょう。
だからこそその刹那を大切にしようと言う人もいるでしょう。
そして、私のようにそれが虚しい徒労だと言う人もいるでしょう。
愛し、愛され、消える。それが遥か遠い子孫の代まで、種が滅びるまで繰り返されるのです。なんと虚しいことでしょう!
さらにこれは恐ろしいことまで示唆しているように思えてならないのです。それは
「たいせつなものなんて、あなたのなかにしかないんだよ」
ということです。
私たちの中で、少しでも懐疑的な視点で教育を受けたことのある人間なら誰でも知っていることです。それは、客観的世界のことについてです。
私たちは普段、目をつぶった後も目の前のイスが存在し続けるという仮説を信じています。しかしよく考えてみると、私が見ているイスと他人が見ているイスは視点が異なる限り微妙に違うわけですし、視力にも依存しますので、厳密な意味で同じイスが見えているとは言えません。
また、他人がいるということも、否、私がいるということ、つまり「我思う、故に我あり」という言葉でさえ、現にいま感じ取っているところの主体としての私と、「これは私だ」と言うときの客体としての私が異なるということも知っています。
科学は現実に対する暫定的な仮説を用意しますが、科学的反証性があるかどうか判断するのは人間の主観とその証言です。そしてその主観≈主体としての私が見たものから客観的世界が構築されているのであれば、全てが主観だと言っても過言ではありません。
世界には、ふっと現れた私と呼ぶに足りるだけの理由を持った存在があり、しかもそれが単に現象の帰属先として仮定されているにすぎず、客観的世界や現象、その帰属などはそれが作り出した幻にすぎないことになります。
もっと言ってしまうと、「なにものかが"ある"と思われる」
これだけしか世界に対する確からしい知識がないことになります。
このとき、科学も宗教も妄想も、全てが同列・等価なものに成り果てます。
私たちは、目の前に立ち現れるものの中で、何を信じたいですか?
そこに、何を見出したいのですか?
今日はこのあたりで切り上げることにします。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?