「乳と卵」 川上未映子
「お母さん、ほんまのことを、ほんまのことをゆうてや、」
「乳と卵」 川上未映子
これは、ほんまにどないゆうてええんかわからへんのやけど、大阪弁と古典と新しい文体が混ざり合わさった感じの読みやすいというか、読みづらいというか、リズムがないんか、あるんか、けどなんか読まされて、知らんまに最後の場面までいってて、一気にカタルシスを得た感じの小説であったんです。
全体を通して、こんな感じの関西弁というか、大阪弁で書かれてあります。
読んでいるというか、読まされているというか、とても奇妙な感覚でした。
内容は非常に哲学的で、余韻が長く残り、考えさせられる作品でした。
主人公「わたし」(夏子)の東京のアパートに姉・巻子(まきこ)とその娘(姪)の緑子(みどりこ)がやってきます。
暑い夏の日の3日間の物語。
巻子は胸にコンプレックスがあるのか、豊胸手術をしようと思って、大阪から妹のアパートがある東京に娘を連れてやってきます。
娘の緑子はちょうど思春期に入る年頃。初潮を迎えようとしている頃。
緑子は女性としての身体の変化が、とても厭だと感じています。嫌というより厭なのです。
緑子は、お母さんと話をしません。
まったく声をだして、話をしません。
意思疎通をはかるときには、紙に書いて読ませます。
緑子は、小さな「反出生主義者」です。
真剣に卵子と精子を合わせることは、やめたほうがいいと思っているのです。
また
「どうしてここに生まれてきたのか?」「こんなに辛い思いをするなら、最初から生まれてこなかったらいいじゃないか。」と考えているのです。
巻子は母子家庭で、ホステスをしながら緑子を育てています。日々の苦労を見ている緑子は、本当は母のことを心配しています。
最近は痩せてきているし、生活も苦しい。
だからこそ辛くて、だからこそ、最初から生まれるべきではなかったと考えてしまうのです。
母の巻子が豊胸手術に拘るのも、自分を育てるのにおっぱいを吸ったから小さくなってしまったんだと考えています。
だから
「お母さんは胸を大きくしたいんじゃないのか?」と緑子は思っているんです。
緑子はまったくしゃべりませんが、ノートに自分の思いを綴っています。
物語は、「わたし」(夏子)の一人称の語りの間に、緑子の思いを書き綴った言葉がインサートされています。こんな風に。
僕自身も子どもの頃、緑子と同じように考えていた時期がありました。かなり「わたくし率」は、緑子と同じでした。
「どうして人間は死ぬのに、生きなければならないのか?」
いやなことがあった時には、「こんないやな思いをするのだったら、いっそ生まれてこなければよかった。」と考えていました。
生まれてきたことは、死ぬまでいくら考えても決してわからないし、答えもでません。考えても、考えても、それでも答えはでません。
そんなことを思いながら、最後の場面へと導かれます。
緑子はついに声を発します!
震えながら声を発します!
と廃棄するために流しの横に置いてあった玉子を、緑子自身の頭にぶつけて割り、泣きながら叫びます。魂の声が叫びます。
巻子は緑子のそばにいって、緑子と同じように玉子を自分の頭に叩きつけてこう言うのでした。
巻子はぐしゃぐしゃになった緑子の頭の玉子を、ハンカチで何度も何度も拭い、背中をさすり続けました。
母への思い、自分への問い、もやもやとした殻を破った緑子は、「何もない」と思いたい中に、何か大切なことが「ある」と・・・感得したのかもしれません。
そ
れを、孵る(かえる)ことのない玉子(生命を宿すことのない卵)を頭にぶつけて叩き割ることによって、親子のわだかまりも叩き割って、中から出てきたどろどろとした因子を開放したのかもしれません。
第138回 芥川賞受賞作
【出典】
「乳と卵」 川上未映子 文藝春秋
この物語は、川上未映子さんが好きな樋口一葉に影響を受けて書かれているようです。樋口一葉は読んだことがないので文体はわかりませんが、 改行なしで読点によって区切られて、延々と続く文体が特徴なんだそうです。
また、登場人物の名前も「たけくらべ」が青写真になっていて、五千円札をメタファーとして使っているのも樋口一葉を表しているとか。
<ここの写真の女の人、たまごみたいな顔してる>