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海のまちに暮らす vol.32|小さな人をみたことがある

〈前回までのあらすじ〉
目つきの悪い雄猫に会う、雨/僕は猫ではないし、雨ではない

 8月の真夜中に、友人のKと福浦港まで歩いて行ってみたことがあった。Kとは同い年である。誰もいない真っ暗な下り坂を二人で降りてゆくと、少しずつ水の気配がしてくる。脇の民家にはごく控えめに灯りがある。音のない23時をまっすぐ下へ下へ、サンダルで下る。100メートルほど下ったかもしれない。僕たちは病弱な街灯が瞬く三叉路に出る。「おれ、小人みたことあるよ」とKが言った。




***

 Kがまだ幼く、祖父母の家にいた頃の話である。


 夜は8時過ぎ、季節は夏だったという。古い家の台所には祖母が立ち、湯気の上がる鍋を前にして夕飯をこしらえていた。祖父は居間で角度のついた座椅子にもたれながら新聞を広げ、Kは祖父のすぐ近くで遊んでいたらしい。窓際にある分厚いテレビが夕刻のニュースを読み上げていたが、音量が小さすぎて一体何を報じているのかわからなかった。

 ふと、Kは小便がしたくなった。トイレは居間を出て、玄関のほうへ歩いたところにある。日本式の立派な造りをしたこの家は、居間から玄関までを立派な板敷の廊下が渡していた。よく磨かれ艶がかっていて、徒競走でもできそうな長い直線である。廊下の突き当たりを右手に折れると玄関があり、左に折れるとトイレがあった。居間側の電球が切れていたので廊下に光はなく、Kは真っ暗な直線をそろそろ歩いた。突き当たりの壁まで行って、そこにある電灯のスイッチを指で押し込む(そのために彼は背伸びをしなければならなかったが)。カチリ、と乾いた音が鳴った。

 さて、この電灯はトイレの内側を照らすことに加えて、廊下の突き当たりの空間一帯にくまなく瞬間的な明るさを与える、という代物だった。元々トイレと玄関の両方を同時に明るくするために設計されたと思われる放射的な電灯の火は、それまで沈静な眠りの中にあった世界すべてをくっきりとした輪郭で洗いだした。Kは目をこすりながらトイレのドアを引こうとした。そして、銀色のノブに手をかけたまま、何の気なしに後ろを振り返り、煌々と照らされた玄関のほうをみた。



そこには小さな人がいたのである。





 ともかくそれは小さな小さな、しかし人間そのものの姿形をした何かだった。完全に明るく照らし出された夜の玄関で、Kはその小さな存在の姿を(短い時間ではあったが)比較的はっきりと鮮明に捉えることができた。それは汚い作業服を身にまとった中年男性のような風貌で、体長10数センチあまりのおじさんというより他ない、くたびれた容姿をしていた。Kは幼く、童話や物語に出てくるような小人の概念をまだよく知らなかったし、小さな人の姿をみても(たとえそれが汚い作業服を身にまとった中年男性であっても)あまり驚かなかった。

 小さな人はひどく慌てており、こちらを仰ぎ見る体勢で硬直していた。顔には疲労の色が浮かび、くたびれた作業服は汗に濡れているようにみえた。明るい廊下は無音の空洞のようにしんとしている。外で鳴く虫の声がにわかに大きくなった気がした。直後、小さな人は脱兎のごときすばらしい速度で玄関の隅にある陶製の瓶と傘立てのあいだに飛び込んで、それっきり見えなくなってしまった。Kはぼうっとして、寝巻き姿のまましばらく玄関をじっとみていたが、先ほどの尿意を思い出していそいそとトイレに入り、廊下を再び居間へ戻った。

 台所へ行き、祖母の足にしがみついて「ねえばあちゃん、うちにちいさいひとがいたよ」と小声で報告した。祖母は特に何の抑揚もない声で「そうかえ」と言い、やたら長い菜箸で鍋の中をかき混ぜていた。やがてそれらが煮詰まってくると火を弱め、「うちは古い家だけえ、おるんだねえ」とだけ言った。

その夜がふけた時刻。祖父母もみんな寝静まったのを見計らって、Kはひそかに1階に降り、まさに数時間前、小さな人がいた玄関の前まで一人でやってきた。こわいなどとは思わなかった。むしろこわがらせるようなことがあってはいけないと細心の注意を払った。そっと電気をつけ、玄関の前の板敷に正座をしてかしこまった。そして、小さく祈るような声で「おねがいです、もういっかいだけ、みせてくれませんか、だれにもいわないので、おねがいします、でてきてください」とそこにあった傘立てに向かって控えめに話しかけた。ひと通りの呼びかけ(もとい交渉)が済むと、その場所でじっと静かに待ち続けた。まばたきを忘れてしまうのではないかと思うほど、身体を動かさずに2時間ほど待った。しかし、玄関の傘立ても靴も観葉植物も、あらゆるものが水を打ったようにしんとしているだけで、終始何も出てくる気配がなかった。Kはあきらめて階段をそっと上り、敷かれた布団の祖母と祖父の間に潜り込むと、こんどはぐっすり眠った。翌朝は一日中天気が良かった。


 祖母が小人について、どこまで本心で返答をしたのかKには結局のところわからなかったが、かわりに面白いこともあった。当時、祖父母の家では足の短いダックスフンド犬を飼っていて、Kともたいへん仲がよかった。老犬なので少々間の抜けたところがあるものの、犬であるからには鼻が効くし、勘の鋭い所がある。そのダックスフンドが翌朝以降、やたら玄関の傘立ての辺りに鼻を突っ込んで匂いを嗅いでいた。Kはその様子を翌日何度もみた。

 あの小さい人、とKは思った。彼は何かを間違えてしまったのだろう。きっと何か少し手違いのようなものがあって、その不当な手続きによって自分の前に姿を見せてしまったのだろう。そう思った。それを思うとたまらなかった。あの小さいくたびれたおじさんがどこか知らない場所で彼なりの生活を営んでいるのを想像すると彼の小さな胸は淡く震えるのだった。そんなKも今ではすっかり背の高い青年である。


***




 真夜中の海に近づきながら、僕は黙ってKの話を聞いていた。つまるところ、Kはそのまま大人になってしまったのだ、というのが僕の感想だ。小さな人をみたままの瞳で、大人になってしまったのだと僕は思う。小さな人はいる。いつも我々のみえないところにいる。Kはそれをみることができる。おそらく今でもみることができると僕はここで断言する。なぜなら彼はそういう機会を与えられた人間だから。なぜなら彼は悲しいくらいやさしいから。それがどれほど美しく彼を完成させ、また同時に危険と損傷の可能性の淵へ彼を立たせているのかということも、僕にはわかるし、いつでもそれを気にかけている。そして僕は彼のそういうところをそれなりに気に入ってもいる。



p.s.

 ミッドナイトの福浦港はとてもよかった。しかし、ここで書くようなことはあまりないかもしれない。堤防の先端では風がもう冷えはじめていて、たった今夏が終わったのだということを知った。



vol.33につづく





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