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海のまちに暮らす vol.31|あかうしくん

〈前回までのあらすじ〉
レイトショーと夜、自分のこと信用はしていない、でも自分の感情にはいつも従う。

 畑と家を行き来していると、知らないうちに猫どもの生活動線を横切っていることになるらしく、ことあるごとに猫からの視線を感じるようになった。彼らにしてみれば、毎朝自邸を知らない誰かが横切ってゆくというのはあまり心楽しいできごとではないかもしれない。僕は僕でオクラを剪定したり、土を耕したりしなければならないので、いつも無遠慮に茂みをかき分けてゆく。ゴム長靴がぱくぱくと石畳を鳴らす。いつだって間の抜けた音楽と共に現れる2本足の動物。

 目つきの悪い雄猫に〈あかうし〉と名をつけていて、朝、畑へ向かう細い路地でよく会う。あかうしはいつも機嫌の悪そうな顔をしている。機嫌が悪いのかと思ったけれど、機嫌の悪そうな人相をしているだけで、何かに腹を立てているわけではないらしい(そういう人が、たまにいる)。でも喧嘩の傷が所々にあるし右耳も欠けているから、それなりにアグレッシブではあるのかもしれない。

 その日は雨の強い夜だったので、無印良品の折り畳み傘(小)は左肩だけを執拗に濡らした。2022年を迎えてもなお、人々が雨を効果的に防ぐ手段には取り立てて劇的な進歩がなく、折りたたみ傘の直径は僕の身体に対して心許ない。立体的な平手打ちのように激しい雨の音が、雨以外のすべてを無音にしていた。雨は僕たちから静かに音を持ち去ってしまう。雨音。雨音──。

 細い路地から通りに出ると、脇に停まったエブリイの下から変な音がした。肩をすぼめてそのまま通り過ぎようとしたら、なおぬ、という太い声が伸びて、屈んでのぞくとあかうしがいた。あかうしはエブリイの車体が守る乾いたアスファルトの上に身を固くして、降り注ぐ水の世界を見つめていた。縮こまった額を往来のヘッドライトが赤く照らしては、音を立てて走り去り、あとにはまた青い夜気が広がる。それが何度か繰り返されるあいだも雨は雨として、エブリイの下以外のあらゆる地表を冷たく湿らせていた。あかうしは往来を向いたままうつ伏せになり、じっと石のようだった。顔の前に揃えた前足の指だけが静かに開かれたり閉じられたりして、それは僕に深海の未確認生物による呼吸運動を思わせた。しゃがんだ鼻筋に水滴がぶつかる。地面に当たって砕けた雨粒が上向きに跳ね返ってくるのだ。

おい、と声をかけても、あかうしは硬直していた。その顔は昼間にみる不機嫌な顔とはまた別の、穏やかな沈黙を貼り付けたようなものだったので、一体全体ヘンなやつだと思った。でも雨には辟易しているのか、そこには何かしら含みのある哀しみが感じ取れて、猫もそれなりに大変なのかもしれないと勝手に納得をした。あかうしくん、僕は君のことが全然わかっていないのかもしれない。僕は猫ではないし、雨ではないから。

 炊飯は早炊きにすべきだろうなと考えながら駅までの坂を登る。雨足はさらに強まって、福浦方面のアスファルトには淡い水流が生まれていた。鈍く歪んだ路面を踏みながら、僕は今晩あかうしが考えるべきいくつかのことに思いを巡らせようとした。のだけれど、その内容はほどなくして僕が食べる夕飯の話に移ってゆく。あかうしくん、あかうしくん。雨が止んだら会いましょう。それまでお互いなんとかしましょう。薄暗い台所で一人、米を研いでいる。

vol.32につづく





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