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海のまちに暮らす vol.21|それはまるで来客の絶えない家の玄関みたいに

〈前回までのあらすじ〉
ひょんなことから自転車をもらいました。馬のようによく走ります。

 新しく畑に畝をつくろうということで、元々あるジャガイモの苗木を1本抜いたら小さな芋ができていた。せっかくなので持って帰って茹でてみる。ピンポン玉くらいの可愛らしいジャガイモがミルクパンの泡と煙のなかで踊る。ザルへあげ、塩と胡椒をまぶして口に放り込むと、小さいながらもちゃんとジャガイモの味がして、ほくほくとした甘みの奥のほうに畑の土の味も混ざっているような気がした。ジャガイモは土の中にできるからか、他の野菜に比べて育った場所の土の香りが風味として伝わってきやすいのかもしれない。でも嫌な気持ちはしない。自分の畑の土の味がわかって僕はちょっと嬉しくなる。

「しゅうちゃん、オクラの種があるから植えたらいいよ」
 とサムカワさんが言うのでオクラの種を撒いてみることにした。畑のメンバーはみんな僕のことを〈しゅうちゃん〉と呼ぶ。最初に会った時に名前を教えたら自然とそうなった。生まれた時から今まで僕の周りにいる、わりに多くの人が僕のことをしゅうちゃんと呼ぶ。たぶん名前を全部言おうとすると少しばかり長いから、縮めてしゅうちゃんが言いやすいのだと思う。しゅうさんとか、しゅうくんと呼ばれたことはほとんど記憶にない。英語圏の彼方からは、たびたび「Hi! Shoe! 」からはじまるダイレクトメッセージが届くので、たぶん足に履く靴が何かだと思われている。初等教育を終えて中学へ上がり、はたまた大学に入学しても近しい人にはしゅうちゃんと呼ばれる。もちろんそうでない呼び方をする人もいるし、基本的にはのもとさんで通すようにしている。

 オクラの種は一晩水につけておくと芽が出やすいらしく、翌朝に種を撒きにいく。ついでに水菜とパクチーの種も埋める。畑の隣接しているサムカワさんの家の玄関からジョウロを借りてきていっぱいに水を汲み、種まきを終えたばかりの地面に優しくシャワーを浴びせる。薄灰色の乾いた地面は水を吸いこんで早速黒々とする。僕はこの黒々と湿った土の色を見るたびに不思議と嬉しくなる。それはやわらかく温かく湿度を保ったまま、種や虫や微生物、とにかくあらゆるいのちを足元に抱え込んでいるようにみえる。誰でも入ってきていいですよ、と居心地の良い布団みたいに広がっている。そういう場所があることに僕は安心する。種から無事に芽が出るかどうか気になって、それから数日間はなんだか落ち着かなかった。

 5日後の水曜。よく晴れたので朝6時に自転車に乗り家を出る。畑へとつづく細い背戸道を身をかがめながら通り抜けようとすると、奥のほうから白とオレンジ斑の猫が歩いてくる。模様からしてねこ先輩(vol.16)ではない。幅の狭い道の中央を、背中をしならせて余裕たっぷりの歩き方でこちらに進んでくる。この細い路地で誰かとすれ違うためには、どちらかが道を譲らなければいけない(たとえ相手が猫であったとしても)。僕は半歩身を引いて道の脇に足を止め、その猫のために道をあける。猫は鋭い目でこちらを見据えながらずんずんずんと僕の横を通り過ぎていき、そのまま道路を横切って海側へつづく階段を軽快に降りていった。

 畑に行くとオクラの芽は見事に土を持ち上げて、地表にすっかり顔を出していた。水菜とパクチーもそれぞれの形をした最初の葉を茂らせている。奥のほうで支柱をたてていたソヤさんが僕の畑をみにきて「いいじゃない」と言う。僕の小さな畑にも、少しずつ生命の勢いのようなものが出てきはじめたような気がする。

「ラッカセイの苗がいくつかあるから、しゅうちゃんにあげる。このツルなしインゲンの苗も持っていきな」

 ソヤさんが苗を分けてくれたので、できたての畝に植えつけてみる。ラッカセイは地中に長く根を張る作物だから、まだ小さい苗にもかかわらず立派な根が育っていた。ソヤさんは根を傷つけないように周りの土を優しく掘り起こして苗を土から取り出してくれる。僕も真似をしてシャベルを土に突き立てる。「優しさが大事なんだよな」とつぶやくようにソヤさんは言う。あらかた植え終わってしまうと僕の畑はずいぶんとにぎやかな様子になった。トマトナスパセリ、トウガラシ、ジャガイモオクラ、シュンギク水菜、パクチーフェンネル……

 伸びてきたシュンギクの茎の先のほうを切って収穫する。持ち帰る袋がないので、たまたまリュックサックに入れていたキッチン用・水切りネットに包んでサイドポケットにしまう。これはなかなか便利な代物で、その後も収穫物を持って帰るのにはこれを使っている。家へ帰って湯を沸かし、塩をひとつまみ。スーパー銭湯のジェットバスみたいなボコボコの中へ朝採れのシュンギクをぱっと投げ入れる。27秒数えてザルにあげ、冷水にさらしてツナ缶とあえる。しょうゆをわずかに垂らして味わうと独特の香りが鼻へ抜けていった。舌の上をザラザラとした食感と爽やかな苦味のようなものが駆け抜けていく。それでいて後味はさっぱりとしていて、もう一度食べてみたくなる。スーパーマーケットに並んでいるいるシュンギクのそれとはモノが違うくらいに、野菜の香りそのものが立ち上がっているような気がする。ジャガイモは畑の土の味がしたけれど、シュンギクは風の味だなと思う。畑の野菜たちを優しくなでてゆく日向の風の味。シュンギクはどのようにしてシュンギクの味に育つのだろう、ジャガイモは一体何を蓄えてジャガイモの姿になるのだろう、ということを考える。おそらく野菜は畑にやってくるいろいろなものたちの香りや栄養を、僕には想像もつかないかたちで受け取っているのかもしれない。

 そういう意味では、僕も畑の土や風、虫、その他目に見えないものたちからさまざまな影響を受けている。ジャガイモやシュンギクと同じように、僕は僕で、僕として土の上で育っている作物のような存在なのだ。以前サカナクションの山口さんが「20代は、影響受けるものを自分で決めない方がいい」というようなことを言っていたのを思い出す。自分が何から影響を受けているのか、畑にいるともはやわからなくなる。だけど、あらゆる方向から影響を受けて自分の身体が変わっていく感覚というのははっきりとわかる。畑で触れたものや見聞きしたもののすべてが僕の中に、それまでにない感覚を置いていき、植えつけていく。それはまるで来客の絶えない家の玄関みたいに、いろいろな人々がかわるがわる扉から入ってきて室内を物色したのちに「それじゃあ」と言って帰っていく。部屋には毎度何かしら癖のある土産物が残されていて、たとえそれがどんなに家に不釣り合いな代物であったとしても、家主はそれを一旦は家の中に飾っておく。その繰り返しで家はどんどん賑やかになり、姿を変えていく。そのようなことが畑にいると頻繁に起きている。畑で土にまみれていることで、僕はどんどん新しい人間になっていく。畑の土から採れたものを食べていると、不思議と普段考えもしないことについて考える。

 畑に出入りすることで湧き上がってくる、ちょっとした発見のようなものを感覚的に、なるべく気取らずに書き留めておくことができたらいいなと思い、家に帰ってスケッチを描いた。タイトルが欲しくなって、しばらく考えて『土の手帖』という名前にした。土の手帖。僕にとって畑へ行くことは、土に何か物事を教わりにいくようでもあるから、悪くない名前だと思う。足元にある土からいろいろなものが生まれてくる。そうした土にまつわるできごとを気楽に手帖へ描いていくようにスケッチや言葉で記録できたら面白いかもしれない。自分用の日記みたいなものだから、そう大したものではないのですが、たまにはお見せできたら嬉しいです。畑はこれから梅雨に、それから夏に秋に向かっていく。その様子をここにも時々書けたらと思う。


vol.22につづく

『土の手帖』つれづれに



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