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海のまちに暮らす vol.20|バイシクル・バイ・マイサイド

〈前回までのあらすじ〉
初夏の箱根登山鉄道に揺られて山へ登り、風となって降りてきたような日曜でした。

 真鶴出版で一緒に働いているタカハシさんから自転車をもらった。なかなか乗る機会がなくてね、と言って、ネイビーのボディにブラウンのサドルが付いたコンパクトなモデルをくれた。ある日の昼時、タカハシさんはその自転車に乗って真鶴出版へやってきて、夕方、今度は僕がそれにまたがり家まで帰った。目的の品物をさりげなく受け渡すマフィア映画の一幕みたいでなんだか面白かった。備え付けのカゴにはリュックサックがちょうどおさまる。

 海に面してぎゅっと寄せ集められたような真鶴の町はアップダウンが激しく、駅から海側へ向かおうとするとあっという間に土地が低くなるし、坂の傾斜もだいぶ急角度になるから短い距離の移動でもちょっとした山登りみたいになる。それは足を置くための面積が少ないわりに高低差の激しい神社の石階段のようでもある。平らな場所を確保するのが難しい土地柄らしく、たいていの家は斜面に土台らしきものを組んで器用に建てられている。平坦ではない地面に垂直並行な建物を造るのはどのくらいの技術を必要とするのだろう。僕にはよくわからない。

 そんなわけだから自転車(電動のものは除く)での移動にはあまり適さない。昔、友人が「保土ヶ谷は下り坂より上り坂のほうが多いんだ」と真剣に話していて僕は噴き出してしまった。そんなことがあるのだろうか。上り坂とは下り坂でもあるし、呼び名についてはその斜面をどのように移動するかという人間の感性の問題になるはずなのだから。しかし今こうして真鶴に住んでみると、サッと通り過ぎてしまえる下り坂がその存在の印象をほとんど記憶に残していかないのに対して、上り坂のほうは何かこう身体的な感情(息の上がり、汗、不安)が記憶にはっきりと作用するところがあるから、案外その説も否定できないのかもしれない。

 ともあれ以来、僕は毎朝(天気がよければ)自転車にまたがって家と畑を往復している。畑までは長い下り坂だから、行きはよいよい全身に海風を受けて颯爽と駆けていくことができるが、帰りはどっこい上り坂である。ペダルの回転数を落とさないように太ももの内側に力を入れ、まだ傾斜が緩やかなうちにつけた勢いを殺さないようにして一息に駆け上がる。途中で降りて自転車を押して歩くということはしない(僕が自身に設定したささやかなルールでもある)。これはけっこう大変な運動で毎回大汗をかく。体中の酸素を下半身が奪い取ろうとして、心臓が音を立てて呼吸が激しくなる。頭の中では何も考えていない。ペダルに乗せた脚を一定のリズムを保ちながら回転させつづけることだけを意識する。頭ではなく脚で考えている。肉体は引き絞られるような疲労を感じているものの、頭のほうは清々しく落ち着いているような気がする。僕は普段何かを考えるのに頭を使わなくてはいけないと思い込んでいるから、時々頭ではない場所でものごとを考える時間が必要なのかもしれない。自転車を漕ぐのも、ウエイトトレーニングをするのも、畑で土を触るのも、だいたいは頭以外で考える作業だなと思う。

 駅の前まで坂を登りきると、つま先がふっと軽くなり、僕の周りの空気に帯びていた熱が冷まされてゆく。汗ばんだ背中にふんわりとした涼しい風を感じる。風は海からものだ。前から風はそこにあったのに、ペダル運動の発熱がそれを気がつかないものにしてしまう。家に帰って熱いシャワーを浴び、新しい服に着替える。坂の多い町で自転車に乗るということは、行きと帰りのどちらかに肉体的な酷使を強いられるということなのだ。だけど僕はけっこう好んでそれに乗っている。体全身を使って何かを考えるために。汗をかいて頭脳を休めておくために。


vol.21につづく





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