「個性的であれ」の正しい理解
この年末、2022年12月30日、31日はひたすら読書。
その中で養老孟司さんの「バカの壁」と「死の壁」を読みました。
「エリート」「脳死」「一元論」「共同体」など面白い内容が盛りだくさん。
その中の「個性とはどこに宿るのか」ということについて文章にすることに。
「個性」とは何か。
改めて考えると何となく使っている言葉かもしれません。
広辞苑では
①個人に具わり、他の人とはちがう、その個人にしかない性格・性質。
②個物または個体に特有な特徴あるいは性格。
キーワードは
他者と比較した際の
「性格」
「性質」
「特徴」
の3つ。
養老孟司さんは本の中で「個性」とは「性格」「価値観」というような目に見えないものではなく、「身体性に宿る」と言っています。
つまりは生まれたその瞬間から1人1人が「個性的である」ということ。
合気道をしてると、体格や体の癖、反射神経、関節の柔軟性など1人として同じ人がいないとわかります。
なので相手に合わせて技を変えたり、技をかけるまでの戦略を変えていきます。
なのに「個性的であれ」と言われると「身体性以外での個性」を探すことに。
これを見つけることは難しそうですよね。
だってそこで問われている「個性」とは明らかに目に見えないもの。
「性格」や「価値観」はちょっとした出来事で一変してしまいかねないものを「個性」として見てしまうと、変化に耐えられなくなりそうですね。
だから「私には個性がない」と思ってしまう。
そもそも世の中で「個性的であれ」とは「自分なりの意見・主張を持て」というのが正しい表現ではないでしょうか。
「自分なりの意見・主張」が結果的に他の人と同じであったとしても、その意見・主張が出てくるまでの背景はその人だけの思考の筋道があったから。
つまり「なぜその意見・主張なのか」を自分なりの言葉で言ってほしい。
それを短縮した言葉が「個性的であれ」ということなのかもしれません。
この「意見・主張」がただ周囲に同調しただけならば、私が発言する意味がないのです。
そもそも「個性」とは生まれ持った身体性に宿るもの。
世間のいう「個性的であれ」とは「自分の意見・主張をしてほしい」ということ。
そう思えば「個性を見つけたい」と思うこともなくなるのではないでしょうか。
ではでは。
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