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2010年代のSNSと都市性―Twitter上に形成される社会の転換はなぜ起きたか

1. 2010年代のSNSと都市性

ここでは2010年代のSNS、それもTwitterについてその変遷を述べる。Twitterにおける人々の関係性、その生まれ方、ユーザーがTwitterに求めるもの、そして形成された社会、これらがいかに変わっていったか。

その根底にある考えとして、SNSと都市性という観点がある。SNSは新たな繋がりを生むものとしての側面を有しているとされている。この新たな繋がりを生むという点は、SNSが生まれるまでは都市特有の資産でもあった。

ジェイン・ジェイコブスはその著書『アメリカ大都市の死と生』(山形浩生訳)の中で「都市近隣を自治の器官として見た場合、役に立つ近隣としては三種類しか思いつきません。(1)全体としての都市、(2)街路近隣、(3)大型だが都市にはならない規模の地区」※1 と述べる。

この中の(1)について「関心を共有するコミュニティと人々を結びつけられるという総合性は、都市の大きな資産の一つであり、最大のものとさえ言えるかもしれません。」※2 とする。

インターネットが地理的制約を解放するものであるという点を考慮し、ジェイコブスが都市近隣について述べたことを当てはめて考えれば、SNSは(1)をさらに拡大し、「日本全体(言語が許せば世界全体)という都市近隣」の中で関心を共有するコミュニティと人々を結びつけるものであると言えよう。

そしてそこで生み出されたコミュニティは、「はっきりとしたユニットではない」が、「物理的、社会的、経済的な連続体」※3 である「街路近隣」としての性格を有していた。

果たして現在のSNSはこれらの機能を果たしているのか。そのような考えを根底に持ちつつ、2010年代のTwitterの変遷を見ていきたい。

2. 「過去」のTwitterユーザーの関係とその生まれ方

2-1. 同趣味者との交流

「過去」(7~8年前)のTwitterでは、オフラインの知り合いよりもはるかに、オフラインの知り合いではないが趣味を共有する人とFFになり、ツイートし、リプを飛ばし合い、という使われ方をすることが多かったと思われる。知り合いとなるための要件としての地理的な制約が解放されたことで、自分自身も自らの行動範囲をはるかに超えた地域に住む人々とTwitterを通じて交流を行っていた。

なお、過去と現在で明確に使われ方が区分できるとは考えていない。傾向としてあるだろうという意味を込めてここでは鍵括弧つきで表現する。

2-2. 地理的な制約を超えた繋がりの生まれ方の効果

このような繋がりの生まれ方では、①ニッチなコミュニティが創出され得る②居住地域に関わらずコミュニティに属し得る、などの効果が存在した。

①は、極端な話が日本全国で数十人しか趣味を共有する人のいない趣味を考えてみよう。普通に暮らしていればその趣味を共有する人を探すことすら難しいだろう。東京であればあるいはいるかもしれないが、そのような二人が出会う確率は小さい。しかし、「過去」のTwitterの用い方では、趣味を共有する人を探す対象と出来る母数が格段に増すのだ。(オフラインと異なり、共有したい趣味をキーワードで検索できることも大きい。)

②は、人口の少ない地方では趣味を共有する人を見つけられず、そのようなコミュニティに属すことができなかった人が、地理的な制約から解放され、探す対象と出来る母集団の人数が格段に増すことにことで趣味を共有する人を見つけやすくなるということである。都市にいなくても同趣味者を探すことができるようになった。

2-3. 繋がりのレイヤーを付与するものとしてのTwitter

個人の持つ、人との繋がりは様々なレイヤーが存在する。家族・親戚の繋がりのレイヤー、居住している地域での繋がりのレイヤー、学校での繋がりのレイヤー、職場での繋がりのレイヤー、etc...。ある個人の繋がりのレイヤーについて、2種類以上のレイヤーに属する人がいることもあるが、それぞれのレイヤーに属する多くの人は1つのレイヤーに属している。上述の通り、オフラインの知り合い以外と行う「過去」のTwitterはここで新たなレイヤーを追加するものであった。

2-4. 特定の人々で比較的閉じた関係性(「〇〇クラスタ」)

趣味を共有する者同士でつながった「過去」のTwitterでは、コミュニティは「現在」よりも閉じたものであった。同趣味者の一群の内部でフォローしあっており、フォロワーのフォロワーまで見ても、極端な広がりを見せることはなかったのだ。

そして「過去」においてはRTはあまり多くなされるものではなかった。このために鍵アカウントでなくても、ツイートは基本的に閉じたコミュニティの中でのみ見られているものであった。日常的な呟きや、同趣味者内での呟きはわざわざコミュニティの外側に出すものではなかった上、仮にRTしても、あくまでも同一コミュニティ+α程度しか見る人は増えなかったのだ。(この閉じたコミュニティ当時は「クラスタ」と呼ばれていた。)

2-5. 都市よりも都市的な繋がりの生まれ方

地理的な制約から解放された結果として、現実の大都市よりもさらに関心を共有するコミュニティと人々を結びつけられる可能性が高まった「空間」が実現された。この側面に立った時、「過去」のTwitterの空間は都市よりも都市であった。

3. 「過去」のTwitterの使われ方

3-1. 個人的情報の公開可能化(「ほかる(=風呂に入る)」と呟くことができる背景)

「過去」のTwitterでは「ほかる(=風呂に入る)」と呟き「ほかてら(=行ってらっしゃい)」とリプライが飛んでくるというような個人的な情報がやりとりされていた。このようなある種のしがらみのある状態をここでは““ムラ””的社会、ない状態を““都市””的社会と呼称することにする。(後掲のツイートを参照。)

オフラインでは風呂に入ってくる、などという相手は家族に留まるだろう。それはそこまでは相手に立ち入って欲しくないし、相手へ立ち入る必要もないからだ。プライバシーを守るという重要な側面がある。これは相手の顔が見え、名前を知り、当然住所を知っており、場合によってはどこの学校に通い、どんな仕事をし、家族構成はこうで、という詳しい情報を知っているからである。この情報に、さらに個人の行動の情報を加えるのは躊躇われる。

ジェイコブスは、人類学者のエレーナ・パディーヤの言葉を引用しながら、「ある人の個人的な問題をだれもが知るというのは、品位あることとは考えられていないと彼女は述べています。本人が公にしている以上のことをかぎまわるのも、品位あることとはみなされていません。それは個人のプライバシーと権利の侵害です。」※4 と述べ、よい都市の近隣ではそれがバランスを保っているとする。全てを知るのは、全てを詮索するのは品位あることではない。このために風呂に入るなどということはオフラインの知り合いには伝えない。

一方で、「過去」のTwitter上では基本的には相手の顔、名前、住所、学校、仕事、家族構成などの情報は知らない。それらの情報は公にしないことが基本であった。この状況であれば、自らの匿名性、あるいはアカウントという仮面を被った状態にあることによって、「風呂に入る」などの情報を公にしても、自らに関する情報は多くなりすぎることはないため、問題ないものとなる。

3-2. リプライによる承認欲求の満足

この「ほかる(=風呂に入る)」と報告し、「ほかてら(=お風呂いってらっしゃい)」と挨拶する時に求めていたものは何か?

それが「承認欲求」ではないだろうか?

今でこそ承認欲求は、不特定多数からの「いいね」をどれだけ集めることができるか、という意味になっている(後述)が、この当時はまだそうではなく、特定の人からの承認を求めていた。「過去」のTwitterのフォロワーの顔、名前、住所、学校、仕事、家族構成などは決して知らないが、匿名ではなかった。アカウント名ではあるが、名前を持ち、オンライン上の文字ではあるが、言葉を喋る、一人の人であったのだ。この当時の承認は、面白い投稿に対する「いいね」(当時は「ふぁぼ」)の数ではない。「ほかる」というなんでもないツイートに対する特定の人(=フォロワー)からのリプライ自体であったのだ。

同趣味だが個人的な情報はほとんど共有していない相手との会話を行うには、趣味の内容のみでは不足する。その際に、会話を行うにはために「風呂に入る」「Twitterから離脱する」などの情報が用いられたのだ。もちろんこれだけではないが、公にしても良い情報であり、適度な会話を生みやすい情報が必要であった。

(もちろんガラケー時代であるために、PCを風呂に持ち込めない、家の外に出たらTwitterができない、などの技術的問題とかけ合わさった結果でもある。)

3-3. 呟きによる「繋がり感」

承認欲求満たす以外にもTwitterに求められていることがあった。それが「繋がり感」である。

自らがある内容について呟く。すると同趣味の人々も似た内容について呟く。それは誰かが提示し始めた話題かもしれないし、同時に見ているTVに関する話題かもしれない。日常的で、不特定多数からのいいねを集めるものではない、単なる呟き。それがTL(=タイムライン)を満たし、段々とリプライで会話するようになる。この、知らないが特定の人々が同じ話題でTLを満たしていくことで同じような考え・思い・感情を持っているということを確認して、受けるものが「繋がり感」である。

「繋がり感」は恐らく近隣との関係性が深い地区では近隣で会話をする相手がいるおかげでオフラインで満たされているものである。

しかし郊外などの住宅地やマンション・アパートにおいて近隣との関係性の薄さ故に、家に帰ると家族以外と話をする機会がなく、同世代との会話を行うためにはオフラインではない手段が求められた。それは電話・メール・SNSと時代を追って変遷しているだろう。さらに近隣との関係性の薄さは時代を経るごとに増してきた。SNSという語が時代という接尾語を伴って使われるようになったのは、このような背景があり、それ故に「繋がり感」がここに求められたのだ。

ニッチなコミュニティにおいてはよりそれが強かったものと思われる。オフラインでは中々同趣味者が見つからず、その趣味の話題について盛り上がることは難しいが、地理的な制約を超えたTwitterではそれが可能だったのだ。

この呟きによる「繋がり感」が極度に表れたものとしてアラブの春における使われ方があげられる。知らぬ者同士でのは相手が抗議に参加するかどうかは不明であるという不安感がある。その参加表明にTwitterが使われたのである。相手も参加するという考えを持っていることを確認することで不安感をぬぐうことができる。

「相手が「行く」と書き込んだのを見れば、相手も現状に不満があることがわかる。もはや互いに何を考えて いるのかわからない「不安」はない!(一方、「行かない」という書き込みには「不安」が残る。不満がないから「行かない」のか、不満はあるが「行かない」 のかは、わからないからである)。」
アラブの春にソーシャルメディアは効いた?
https://toyokeizai.net/articles/-/18963?page=5


3-4. 「過去」のTwitterに現れた““ムラ””的社会の正体

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地理的な制約からの解放により、同趣味者との交流が実現された。地理的な制約から解放された関係であったことで、個人的な情報が公開可能となり、リプライを生みやすい話題、情報が提供された。また、同趣味者との交流であることでよりリプライを生みやすい話題、情報は提供されていた。そしてこの交流は比較的閉じたコミュニティであった。

このリプライを生みやすい構造、閉じたコミュニティであることは、リプライによって承認欲求を満足し、TLに流れる同じ話題の呟きで「繋がり感」を満足した。

このような状況が結果として地理的制約から解放された繋がりのレイヤーに““ムラ””的社会を現出させたのだ。地理的制約から解放された都市よりも都市的な繋がりの生まれ方と““ムラ””的社会は一見矛盾するような帰結だが、全く矛盾しない、むしろ当然の帰結だった。

4. 「過去」から「現在」への転換(2010年代半ばにおける転換)

4-1. ““ムラ””的社会から““都市””的社会へ

2年半ほど前にこのようなツイートをした。一定の反応が来たあたり、ある程度共感される内容だったのだと思う。当然これに関しても「過去」はこう、「現在」はこう、とはっきり別れるわけでは決してない。140字以内のツイートだから断絶のあるような書き方となっているだけだ。今でも““ムラ””的社会のTwitterの使われ方もあるし、逆もまた然りである。ただ、傾向として一つあるだろう。

この““ムラ””的社会から““都市””的社会の変化は2010年代初めから半ばころに発生したものである。果たしてこの変化は何によるものだろうか?

4-2.個人アカウントの収益化の可能性の顕在化とインフルエンサーの出現

一つの要因として2010年代初めから半ばにかけて、個人のSNSアカウントの収益化の可能性が一般に広まったことがあげられる。

「2012年4月13日、(中略)一部のユーザーにのみ提供してきた動画の収益化プログラム「YouTubeパートナープログラム」を一般ユーザーに開放したと発表した。」
「Google日本法人が2008年にスタートしたYouTubeパートナープログラムの状況を説明。2011年までの3年間でユーザー収入は4倍に増え、『自分がアップロードしたコンテンツに広告を入れて生活している人もいる』という。」

例えばYouTubeでの収益化が盛り上がってきているのが2010年前後。徐々に一般化し、多くの人に認識されたのはもう2〜3年は経ってからだろう。

そして「2017ユーキャン新語・流行語大賞」で「インスタ映え」が年間大賞を取り、「今年の新語」で「インフルエンサー」が2位になったのは2017年である。

いいねを集めることで金銭的な利益を得る人、影響力を持つ人などが出始めてくるのである。

さらにSNSの使い方として、商業的な利用が可能であることが顕在化した。Twitterでは主に宣伝効果として現れるものであり、自らの能力のアピールや作品の宣伝などとしての利用も増加した。

4-3.承認欲求を満たすものの変化(リプライからいいねへ)

ところで「承認欲求」という単語の使われ方を見ると、2000年代までは仕事に関するもの〜ネット上でも友人からの承認という部分が多くを占めているようだが、2010年代になってからは、ネット上の不特定多数からの承認という意味合いも出てくる。そして今や10〜30代くらいの意図する「承認欲求」は、後者であり、承認の数を重視する。(「承認欲求 until:2009-12-31」や「承認欲求 until:2011-12-31」などでTwitterで検索をかけると、語の使われ方の違いを実感できると思う)

「年齢が若いほど「承認の数」を重視しますが、年齢を重ねるほど「承認の相手」を重視します。 」

上記のように2018年の調査でも、若者に関する傾向としてこれが見られる。不特定多数からの承認の数の多寡が重要だと考えられている。

SNSにおける「個人アカウントの収益化」、「突出した人気を誇るアカウントの出現」、そしてのその社会現象化までが2010年代初めから半ば頃に発生した。すなわち、「『いいね』を大量に集める個人アカウントの出現と、その出現を多くの人々が認知したこと」がここで起きたのだ。

この結果として、乱暴な言い方をすれば「『いいね』を多く集めることが一番である」という価値観が生まれた。認知から価値観となるまでの心理は人によって少しずつ異なるだろう。いいねの数が、金銭的欲求を満たす、名誉的欲求を満たす、人間関係的欲求を満たす、あるいは直接に心を満たす、そのような感情的な過程を経て、上述の価値観となった。

この結果、““ムラ””的社会ではフォロワー内の会話としてなされていた承認への欲求は、全世界からの匿名の承認への欲求へと変貌した。

つまり、承認欲求を満たすものは「特定の人々からのリプライ」から「不特定多数の人々からのいいね」へと変わったのである。

さらに、リプライを受け取りたいのではなく、いいねを多く集めたい以上、いいねを多くもらえると見込みのない「風呂に入った」という情報を出す必要はなくなった。(性的魅力を持つ人物が写真を載せて「風呂に入った」とツイートするものは全く別物である。)

いいねを集めるために、面白い/興味を引く/共感されるツイートをしたいと考えるように変化したのだ。

4-4.リプライの忌避

一方でリプライは積極的には求められないものとなった。さらに、多くのいいねを集めた(=バズった)際に来る、全く今まで関わりのなかった人からのリプライには、的外れな賛同や、心ない批判が含まれた。これは140字では言いたいことは伝えきれないこと、リプライを送る側は発信者をフォローしてないためにその言葉の文脈を理解していないことによる。

いいねベースで、多くの人にツイートが見られることとなり、文脈を理解できない(あるいは、単純に文意を読み取ることができない)人物からのリプライが顕在化した結果、リプライそのものが多少忌避されるものとなった。統計データは持ち合わせていないため、またしても体感となってしまうが、「過去」よりも「現在」の方が全ツイートに占めるリプライの率は低下していると思われる。リプライは相対的にも絶対的にもその価値が下がったのである。

これは2020/8/12にTwitterで、リプライのできる相手を制限できる機能が追加されたことに結実したと言えよう。リプライは求められていないのである。

すなわちリプライは「しがらみ」となった。リプライの意味の変化、リプライベースからいいねベースへの転換、これがTwitterでの““ムラ””的社会から““都市””的社会への転換の中身の一つであるのだ。

リプライの忌避は““ムラ””的社会では発生しなかった。2-4で述べた通り、「過去」のTwitterでは閉じたコミュニティであり、リプライを送ってくるのは普段から(オンライン上ではあるが)会話を行っている人間であり、文脈をわかっていたし、心無い批判を行えば、コミュニティ内の別の人間にも見られるために孤立し、悪ければブロックされてしまい、自分の立場を危うくするものだったからである。

加えて、商業的な利用でも、いいねやRTを多く集め、多くの人の目に触れること、そして需要する人の目にとまることが重要であり、リプライは基本的に不要である。

4-5.繋がり感をもたらす新たなツール

「繋がり感」を満たすものは何になったか。LINE、InstagramのDM...etcである。LINEの2013年度第1四半期時点での日本での月間アクティブユーザーは3100万人であったが、2014年第4四半期に5000万人を超え、2020年第3四半期で8600万人となっている。メールよりもさらに気軽に知り合いにメッセージを送ることができるツールがいくつもでき、それがよく利用されている。このために、「繋がり感」を得るツールはそちらへと転換した。

Twitterでは上述の通り、RTやいいねが高価値化されたことによって、自らの呟きを不特定多数の人に晒すことが必要となった。このために、閉じたコミュニティというものは不利である。開かれたコミュニティに属すること、あるいはコミュニティを開かれたものとする必要が生まれた。

このため、閉じたコミュニティで同じ話題で盛り上がることによる「繋がり感」は、Twitterでは満たすことができなくなった。結果としてLINEなど、極度に閉じられたツールが求められ、「繋がり感」はそこで満たすものとなったのだ。

ここに、承認欲求と「繋がり感」は明確に分離され、それらを満たすツールすらも分離された。この機能的な分離も2010年代半ば頃までの大きな変化である。その後におけるSNSもメインの投稿機能だけではなく、DM機能を備えているなど、承認欲求と「繋がり感」は機能分離されている。

4-6.日常を垂れ流すものから、特別なものを魅せるものへ

「過去」のTwitterにおいて、呟きによる「繋がり感」やリプライによる承認欲求を得るためには、なんでもない日常を垂れ流すことがツイートに求められる内容であった。リプライをもらえればいいし、あるいはTLを賑やかにするだけでもいい。

しかし、いいねの高価値化がなされている状態では、ツイートには特別なもの(面白いもの、関心をひくもの)を魅せ、いいねを集めることが求められるものとなった。特にこれはいいねの高価値化がなされた後にTwitterに新規参入してきた者たちにとって顕著なものであり、膨大な数のツイートをするのではなく、ある程度いいねをもらえそうな内容をツイートをする傾向がある。

5. 現在のTwitter

SNSの都市性

5-1.オフラインの繋がりのある人との繋がりの補完

「現在」のTwitterの使い方として、実際の知り合いとFFになり、ツイートをするという使い方をする人が相当数増えたと思われる。
※これはあくまでも体感なので、数値的な裏付けは全くない。

「現在」の(主流と思われる)利用のされ方では、上記で述べた繋がりのレイヤーは増すことはない。むしろオフラインでの繋がり(それは恐らく高校での繋がりのレイヤーや、大学での繋がりのレイヤー、サークルでの繋がりのレイヤー、職場での繋がりのレイヤー)を補完することに機能すると考えられる。

加えて、同じアカウントで別のレイヤーの人とごっちゃにFFになっている場合、別のレイヤー間を媒介する機能であったり、あるレイヤーにいる自分(これはしばしば少し性格が変わっていることもある)を別レイヤーの人に見せる機能ともなりうる。

5-2.アカウント間「格差」とそれを煽る構造

「過去」の使い方ではリプライが承認欲求を満たしていたと書いた。このリプライはあくまでもフォロワーからのもので、基本的には数の高が知れているものだ。リプライを送ればその分だけまた返さないといけないのだから、そこまでの数を送ることは無理だからである。

しかし、いいねが高価値化された結果として、ツイート間のいいねの数の差は大きく開いた。高だか2桁もいけば多い方であったリプライに対して、いいねは数万、時には十数万などの膨大な数に達し得る。ここに「貧富の差」のようなもの(実際に金銭的に富める者となっているかどうかは別であくまでも数値的に差がうまれているというだけ)がうまれている。

そしてこの差は、デフォルトの「ホーム」表示でおすすめツイートが表示され、通知欄にもおすすめツイートが表示されるというTwitterの表示の変化によって煽られる構造となっている。

6. おわりに SNSの都市性

6-1.Twitterに求めるものTwitterの提供するもの

上記のような変化の結果、ユーザー側としても、サービス提供側としても、Twitterは「繋がり感」を需要/供給するものではなく、「いいねによる承認欲求」を需要/供給するものとなった。

「繋がり感」は重要な都市性を示すものであったが、それはTwitterからは失われてしまった。「繋がり感」をもたらすものは、よりはっきりと閉じたコミュニティを形成することができる機能を有する別のツールとなった。

これはジェイン・ジェイコブスの指摘する「通常失敗の見本になっている」「きっちりした境界を持つ孤立した街路近隣」※5 に他ならないのではないだろうか?「過去」のTwitterでもコミュニティの状態は比較的閉じていたが、LINEやそれぞれのSNSのDMほどに他人の入る余地のないものではなかった。

6-2.都市性を持ったSNS

「過去」のTwitterよりももう少し開いたコミュニティを形成し、それぞれのコミュニティが「重なり合って相互に絡み合う」※6 ようなものとできる都市性を持ったSNSに必要だ。

新たな繋がりを生み得るものであり、それが比較的安定的に機能しつつ、常に一定の人間関係的な刺激をもたらし得る形。そしてオフラインでの人間関係を補完するものであり、オフラインでの人間関係を広げることにも寄与する形。「過去」と「現在」のTwitterの使われ方の双方のメリットを兼ね備えたSNSの在り方が求められるのではないだろうか。


※1 ジェイン・ジェイコブス,山形浩生訳(2010),アメリカ大都市の死と生,鹿島出版会,p139
※2 ジェイン・ジェイコブス,山形浩生訳(2010),アメリカ大都市の死と生,鹿島出版会,p141
※3 ジェイン・ジェイコブス,山形浩生訳(2010),アメリカ大都市の死と生,鹿島出版会,p143
※4 ジェイン・ジェイコブス,山形浩生訳(2010),アメリカ大都市の死と生,鹿島出版会,p77
※5 ジェイン・ジェイコブス,山形浩生訳(2010),アメリカ大都市の死と生,鹿島出版会,p142
※6 ジェイン・ジェイコブス,山形浩生訳(2010),アメリカ大都市の死と生,鹿島出版会,p142


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