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傀儡師の追憶『へルマン』

今頃になって、ようやく初夢を見た。

へルマン・ヘッセの夢を見た。


備忘録として、私見をここに記します。

あらすじ程度で詳細は書いてないつもりですが、少々ネタバレ気味かもしれません。

観劇前に知りたくない方は読むのをお控えください。



まずは、麿赤兒。

おのれの影を操れる人間を、初めて目撃した。

かの有名なタップダンサーのフレッド・アステアは、影を操れる大スターだった。

そのアステアとタイプは全く異なれども、

大駱駝艦を率いる麿赤兒も、影を操れる舞踏家の一人である。

通常、人間は自分の影を操ることはできない。

影はついて回る。

しかし、影はいつも勝手に動き回る。

自分で自分の影を捕まえることは、並大抵の人にはできない。(これは見える影も、見えない影も)

しかし、この時代に影をコントロールができる人間がいるとしたら、それは暗黒舞踏の人々かもしれない。

彼らだけが、自分の影の中から、あらゆる人間が抱く、畏れも、歓喜も、狂気も、悲嘆も、それらすべてを引き摺り出して、我々の目前に晒すことができる。

おのれが何よりも畏れているもの、恐ろしいと思っているものを、晒す、さらけ出すという行為は、この世で一番勇気がいる。命を張るに等しい。

表舞台に立つ人間でも、いや、むしろ表舞台に立つ人間こそ、容易に成せることではない。

仮面をかぶることを生業にする人間こそ、それは非常に困難を伴う行為だろう。


麿赤兒は一切を隠さない。

あるがままの姿で、舞台上で、生きて、死に瀕し、再び蘇る。

麿赤兒は麿赤兒でありながら、へルマン・ヘッセの心の奥底にある闇を、引き摺り出す。

弱さも、嫉妬も、醜い、何もかもを。

誰かに愛されたがるのに、なぜあなたは孤独を愛するのか。どうして独りでいたいのか。

あらゆる人間が決して避けては通れない、愛の苦悩を、まざまざと突きつける。

劇中のセリフが、胸にグサリと刺さりました。


次に、傀儡のような俳優の動き

漂うような舞踊と(コンテンポラリー的な)、激しい舞踏と、操り人形のようなパントマイムに、絶え間なくセリフが交差する。

ヘッセの追憶、精神世界のなかで彼らは生きている。

傀儡師であるヘッセと傀儡たち(他の登場人物)は互いに互いを操り、操られ、主導権が頻繁に移り変わるさまが面白い。

照明の色が丁寧に切り替わり、場面の状況が掴みやすい。

音楽は、映像や絵画から連想されるイメージの延長線上にある曲が使用される。

水面、そこへ某映画のオマージュがあったり。

背景にプロジェクターで映し出されるのは、現実味の強い映像と、有名な絵画の数々。

川村毅による構成・演出が、へルマンの夢幻を、より鮮明にして俳優に投影してみせた舞台でした。


最後に、不思議な偶然の一致。

一週間前ぐらいから、アルセーニイ・タルコフスキー詩集『白い、白い日』を、何度か読み直していました。(この人は映像の詩人と呼ばれるアンドレイ・タルコフスキー監督の父)

タルコフスキーの映画はよく難解だと言われますが、この詩集を読むうちに、一見複雑に見える場面が、難解でも何でもないことが分かってきます。

作品の多くが、アルセーニイ・タルコフスキーが詩にしたためた追憶の物語。

若き日の愛と、嫉妬と、燃えさかる炎と、魂、夢、鏡、水面、遺言。

それらのキーワードの中にヘッセとの共通項がいくつもありました。

若き日の愛、嫉妬、魂、水面、夢。

今回はあらすじをざっくりとしか知らず(何かの群像劇としか)、事前にパンフレットも目を通さず(その方が面白いと思い)、観劇したのにも関わらず、ヘッセの世界がすんなりと受け入れられたのは、その詩集のおかげでした。

必然なのか、偶然なのか、導かれたにせよ、そうでないにせよ『へルマン』に繋がるものを、アルセーニイ・タルコフスキー、そしてアンドレイ・タルコフスキーが示唆してくれたことに、心から感謝。(そして、この公演を教えてくれた人に)



久しぶりに、心をわし掴みされました。

なぜ、今、へルマン・ヘッセか

彼の追憶のなかに、俳優たちが連れて行ってくれます。

あなたはそこに何を見るのか。

ご興味ある方はぜひ観に行ってみてください。

吉祥寺シアターで28日まで上演中です↓

高校生以下割引や30歳以下割引等あり〼(U30でチケット買えました)

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