見出し画像

SNSはルーラのように世界をつまらなくする

SNSをほとんどみなくなった。なんだか嫌気がさすのだ。
それよりは、保育園に息子を迎えに行った帰りに顔を合わせる、犬を連れた老人の表情やその足取りに気を留めたいのだ。もしくは、その脇の畑で夕陽に照らされている柿の木や、その実に手を伸ばそうとする息子の表情に気を留めたいのだ。たぶんそこにある複雑さや深みに安堵を覚えるのだ。

SNSに触れたとき、はじめは自分の狭い世界が広がるような気がした。
世界中の人々の声を聞くことができて、そして望むのであれば、双方向にコミュニケーションをとることができる。
世界は確かに広がった。だけれど、同時に薄く引き延ばされるのだ。ちょうど、厚みを持ったゴム風船が、空気を吹き込むごとに薄くなっていくかのように、世界の奥行きや深みが失われるのだ。
SNSを通して知る旧友の報告ほど味気ないものはない。できれば、帰省したときに酒でも飲みながら熱のある声によって知らされたかったと思う。

そんなことを考えるとき、わたしたち人類のコミュニケーションの歴史、もしくは空間性の変遷は、ドラクエをプレイする体験のようだと思う。
いつであったか、目を輝かせてプレイしたドラクエの世界を思い起こしてほしい。
物語のはじまりにおいて、世界は巧妙に限定されている。岩や海などで阻まれ、アクセスできる世界はとても狭い。そのなかで、一コマずつ歩を進め、街の人に会い、話を聞き、ミッションを見つける。

https://www.famitsu.com/news/202209/27276631.html
https://www.famitsu.com/news/202209/27276631.html

そして、また一コマずつ歩き、モンスターがひしめく険しい洞窟を抜け、やっと辿り着いた新たな街は、これまでみたことがないほどに個性的で、独自の地域性を保有している。そして、さらに冒険が進むと、また新たな世界が広がっていく。
つまり、わたしたちは、自らが歩を進めることによって、世界が拡張していく感覚に、目を輝かせたのだ。

物語の中盤で、わたしたちはこれまでアクセスできなかったエリアにも歩を進められるようになる。例えば、船や魔法の絨毯などのアイテムを得ることによって。世界が広がる感覚は、わたしたちを興奮させた。

そして、ついにはルーラという呪文をおぼえるのだ。これまでモンスターに阻まれながら、一コマずつ歩を進めてやっと辿り着いた場所に、一瞬でワープすることができるこの呪文にわたしたちは魅了される。これまで時間をかけて移動していたのが馬鹿らしく感じるほどに。

だけれど、この瞬間にドラクエの世界は、わたしたちが目を輝かせて冒険していた世界ではなくなっていたのだ。後から振り返ってみるならば。
つまり、ルーラという呪文によってドラクエの世界は、既知の場所であれば、どこでも瞬時にアクセス可能になる。過程が失われるのだ。
そして、自らが歩を進めることで拡張する世界は、その彩りを失ってしまう。なぜなら、ゲームの中の世界だとしても、既知の場所など本当は存在し得ないのだから。
それ以降、わたしたちはラスボスを倒さなければならないという義務感によって、目の輝きを失ったまま、レベル上げの作業に時間と体力を浪費するのだ。

ドラクエをプレイしたことがない方のために、例えを入れ替えてみるならば、物語りの序盤においてアドベンチャーとして描かれていたドラゴンボールの世界と、舞空術による高速移動や瞬間移動を扱えるようになった後の、格闘漫画となったドラゴンボールの世界を思い浮かべてもらえばよい。

ここで話しは現実に戻るのだけれど、つまり、わたしたちは、スピードを求めるあまり、SNSという呪文を駆使して世界を把握し、人と人との間にある空間を失ってしまったのだ。わたしたちが深く味わい、感動していたその過程を失ってしまったのだ。
日本中を歩いてまわり、それを『奥の細道』に著した松尾芭蕉の感情の機微やその過程を、わたしたちは失ってしまったのだ。
それは、映画のあらすじだけをみるのと同じくらい無味乾燥であるし、もっと言うのであれば、人の一生を「彼は生まれて死んだ」と一言で片付けてしまうのと変わらない。

あるいは、学生のときに読んだ二葉亭四迷の『平凡』を思い出す。
アイロニカルにも自然主義の作法にならって、ありのままをだらだらと書いたこの作品は、読み進めることが苦痛ではあったけれど、その過程を経ることでしか辿り着けない読後の感情があった。

わたしたちは今、これまでに経験したことのないようなスピードの世界に、そしてこれまでにないほど深みのない世界に生きている。
それでも、SNSを閉じれば、世界は再び少しずつ速度を失い、深みを取り戻していく。
保育園への道の脇には、その季節ごとにいろんな花が咲くし、それを照らす陽の光も季節ごとに変わる。気が付けば、この道を毎日もう2年も往復している。だけれど、その道は毎日違って、その過程があるから、今この眼前の光景は美しい。
やはり既知の場所など存在し得ないし、省略してしまってよい空間などないのだ。スピードを失い、おかげで、そういった機微に気付くことができる。

息子はその機微の中で成長している。送り迎えのときに顔を合わせる犬を連れた老人は、毎日顔を合わせていると、自然と挨拶をするようになったし、息子も「ばいばい」と言うようになった。その脇の畑で、柿の実がなっているのをみて、「ぱぱ、とって」と言うようにもなった。
そして、最近は送り迎えの時に、バギーではなく、わたしに手を引かれてだけれど、自ら歩くようになった。もう少しすると、彼は手を引かれないでも一人で歩けるようになり、もう少しすると三輪車に乗り、さらには自転車に乗れるようになる。彼のアクセスできる世界はどんどん広がっていくだろう。彼の未来にはどんな世界が広がっているだろうか。それを想像するのもたのしい。

そして、同時にわたしは歳を重ね、老い、今のわたしの親と同じように、少しずつアクセスできるエリアが小さくなっていくだろう。
だけれど、スピードを失ったわたしは、そのゆっくりした速度のなかで、身の回りの機微に気が付くことができるし、その小さな世界はどこまでも掘り下げることができるのだ。

であるから、わたしの晩年の世界は、きっとどこまでも深く、そして、きっと深海のように美しい。

この記事が参加している募集

ゲームで学んだこと

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?