逃げ水 #1| ソファの匂い
落ちかけた毛布をたぐり寄せる動きに合わせて、顔がベルベット生地に近づくと、すえるような匂いが鼻を刺激した。
「くっさ。。」
柔らかいカーブで一筆書きされたデザインの肘掛と背もたれに囲まれた、黒の高級ソファで目を覚ます。
諸先輩方の血と汗と涙が染み込んでいるだろうこのソファはミーティングルームに華を添えるアイテムとして鎮座していた。
匂いをかき消すには、中性洗剤を染み込ませた布でゴシゴシトントンと生地を洗って、3人がかりで屋上に持っていって干せば良いのだろうが、そんな暇のある所員がいるわけもなく、事務所の歴史とともに芳しい香りを蓄積して「ええ感じ」のヴィンテージソファが完成している。
眠い目をこするまでもない、強い刺激を受けて起き上がり、ベートーベンの石膏像がかけたサングラスに映し出された赤い数字に目をやる。
そこには「07:24」と表示されていた。
数字が赤色なのはベートーベンが作曲に集中しすぎて目が充血しているからなのか。もしくは情熱的な曲のイメージを体現しているのか。
いや、そんなことは今はどうでもいい。
先輩が出社するまでにはまだ十分に時間がある。
今日の午後に行われるネイルサロンのプレゼンに使う資料作成の続きをやらなければならない。
半透明のグレーのパーツがあしらわれた筐体がかっこいい、PowerMac G4に接続されたシネマディスプレイの画面を確認しにノロノロと移動する。
結果はわかっている。
終わっているわけがない。
画面を見ると案の定まだ5mm四方くらいのセルがピコピコと点滅しながら移動している最中だった。これはあと数時間かかるやつだ。
しかも、モザイク状の絵でも判断できるくらいに、明らかにライティングをミスっている。
「これはあかんわ。」
レンダリングをかけたのは日が変わった2時頃、かっこいい絵が欲しくて計算に時間がかかるレイトレーシングを選択して「実行」のボタンをクリックした。
「終わらんやろうなぁ、、」
とは思いつつ、希望的観測を持ってパースと同様に完成させなければならないマテリアルボード製作に移行し、完成後に床に(ソファに)ついた。
いくら450HzのCPUを積んだマシンとはいえ、メモリはデフォルトの64MBだし、グラフィックボードはウィンドウズマシンに比べるとCGソフトをガシガシ動かすには、風の強いキャンプ場で薪への焚き付けにマッチを使うくらい心許ない。
「もっとハイスペックなマシンを買ってくださいよ〜」
と、入社したてのペーペーがそんな要望を出したところで通るはずがない。
ましてや僕が学生の時から使っている3DCGソフトを個人的に持ち込んで使っているだけなので、会社からすると「知らんがな」であろう。
さて困った。どうしたものか。
頭はまだぼーっとしていて、いいアイデアなんて浮かびそうもない。
アンプの電源をオンにしてFM802から流れてきた LOVE PSYCHEDELICO の「LADY MADONNA~憂鬱なるスパイダー~」が多少テンションを上げてくれたが、体の方はまだシャキッとしない。
まずは早朝の気持ちいい空間を独り占めしてコーヒーでも飲むか。
建築・インテリアなど空間デザインに関わる人へ有用な記事を提供できるように努めます。特に小さな組織やそういった組織に飛び込む新社会人の役に立ちたいと思っております。 この活動に共感いただける方にサポートいただけますと、とても嬉しいです。