”推し”という「都合のいい宗教」
宇佐美りん著「推し、燃ゆ」を読んだ。
感想を書く前に、他の読者がどのような印象を受けているのか、チェックした。
私の感想も有象無象の読書録と大差ないものではあったが、敢えて自分の言葉で綴り、以前から漠然と考えていたことと併せてここにまとめる。
推し、燃ゆの中で、主人公がアイドルを”推す”ことは主人公の言動や作品を「解釈する」ことだと認めている。この構造は偶像崇拝と似ている。
我々が観測しているアイドルは、味気なく表現すると人間の一状態に過ぎない。就業中の職業人だと言ってもいい。どんなに有名でメディア露出の多いアイドルでも、アイドルである時間よりも私人である時間の方が長い。その構造が不変である以上、アイドルを推すことは単純に特定の人物の応援をすることではないように思う。
ここで偶像崇拝について少し触れておく。
偶像崇拝とは神仏を具象化した物体を信仰の対象とすることである。日本人受け入れやすい概念だろう。寺院に参拝することは偶像崇拝の最も分かりやすい例だろう。同じことは、イスラム教やユダヤ教では禁止されている。神以外の信仰を固く禁じており、偶像は神そのものではないという宗教的解釈のためである。アイドルの語源はこの偶像(=イデア)とする説が強く、アイドルと偶像という言葉は原義的にも近いといえる。
アイドルを推すという行為に偶像崇拝を当て嵌めてみれば、推しの人間=神、推しがファンの前に表す姿=偶像、と解釈するのが自然かもしれないが、実態はもう少し複雑そうだ。
推し燃ゆの主人公が行っていた「解釈する」という行為がその複雑さの次元を上げている。解釈するという行為は、推しを心の中に造成する行為のように思う。しかも偶像を造成する過程で、推しは実態から独り歩きを始めることが多い気がする。
こうして造成された”都合のいい解釈で歪められた推し”を心の中に住まわせて偶像とし、その偶像を崇拝するという、二段階の偶像化を行っているように見える。
ここまでをまとめると、推しの人間=神、推しがファンの前に表す姿=偶像1、推しの偶像に対して都合のいい解釈を加えたもの=偶像2、という構図になる。この二段階構造によって、推しは推す側の求める姿により漸近し、帰依の気持ちを増幅させる要因となっている。そして、心に造成した推しの偶像に心は浸食されるようになり、いつしか心の中央を占拠するようになる。ある種の洗脳に近い。
高度な洗脳には、命令など不要だ。洗脳を受けたものが、意思を慮り、自らを律し始めるのである。しかも、信仰の対象のためではなく、それは帰依するもののための行為となり替わり得る。はじめは推しのためにとっていた行動も、推しを応援する人格を肯定するための行動となる。
この構造は、推す側が勝手に作り出した偶像によって、自らを主体から客体に変貌させ、自ら囚われるよう仕向けているように見える。
宇佐美りんは芥川賞受賞者インタビューの中で宇佐美は以下のように述べている。
「推しなんてただの趣味で、自分を預けるべきではないという見方もあると思います。実際にそういう感想も目にしました。私も、それがおおっぴらに許されるべきだと主張したいのではありません。でもそこに切実な現実がある、そうやって生きている人がいる、そのことをただそのままに描写したいと思いました。」
まさしくその通りだと思った。このnoteで主張したいことは、推しに自らを預けることで営むことを可能にしている人から、推しを強奪するなどという無慈悲な所業を強いることではない。むしろ自律的に生きていくことが困難である状況においては、生きていくことが第一に優先されるべき事項となる。たとえ他律的であったとしても、生きてさえいれば、主体と自律を取り戻すことができる日が来るかもしれない。
ただ、自律的に自らの人生を進めてきた人が、推しの信仰が原因で、自らの主体を自分以外に譲ることは防がれるべきではないかと思う。推しを自分のの内側に入れず、”自らの外側に取り込む”ことに近いかもしれない。自らと推しの関係はあくまで、切ったら切り離せるもので、推しは人生の幸福度の増幅器であり、人生そのものではない。このような態度で推しと向き合うべきなのではないかと考える。
宗教が消滅する恐ろしさを我々は知らない。恐ろしくて想像する気にもならない。ただ、推しは消滅する。消滅しない推しはないと言っても過言ではない。二次元だろうが、三次元だろうが、推しや、その裏方にも人生があり、どこかのタイミングでライフステージを進めるときが来る。青天の霹靂のように、表舞台から消え去ることもある。
雨が降るならば傘を用意すべきであるように、推しが消滅するのであれば、心に備えが必要である。心に備えができそうにないのであれば、心に大きな空洞を作らないよう、心の淵の部分で推しを推すべきだろう。
推しはときに、都合のいい解釈によって宗教となる。現代を生きていく上では、推しとの付き合い方を考え続けることが求められているのではないかと思う。